第125話 差し出す先を決める朝
朝の麦猫堂は、まだ人通りが少ない。
石畳を踏む足音もまばらで、
焼き始める前の厨房は静けさを保っていた。
エリは開店準備を終え、
昨日包んだ紙を作業台の上に置く。
条件。
たった一枚の紙。
それなのに、
これを渡すという行為が、
こんなにも重い。
「……」
息を吸い、吐く。
逃げ道を探していないことは分かっている。
ただ、
選ぶという行為が怖いだけだ。
「エリ」
セシルが、戸口から声をかけた。
「もう決めましたか」
「……うん」
エリは、小さく頷く。
「まだ少し緊張してるけど」
「当然です」
セシルは近づき、
紙に一度だけ視線を落とした。
「それでも、持ちますか」
「持つ」
即答だった。
「逃げないって、決めたから」
セシルは、
一拍置いてから頷く。
「では、行き先を確認します」
エリは、紙を持ち直す。
「連合じゃない」
「……はい」
「先に、ルチアさんに渡す」
言葉にした瞬間、
胸の奥がすっと静まった。
迷いは消えていない。
でも、
方向は定まった。
「条件を数字や制度に変換される前に」
エリは続ける。
「まず、人として聞いてほしい」
「理解されるとは限りません」
「それでもいい」
エリは、はっきりと言った。
「それでも、私が作った条件だって伝えたい」
セシルは、静かに息を吸う。
「では、私からアークへの連絡は?」
「今日はしない」
「……後回しにするのですね」
「隠すつもりはない」
エリは首を振る。
「でも、順番は選ぶ」
それは逃げではなく、
主体的な遅延だった。
「承知しました」
セシルは、それ以上言わなかった。
条件を持ち、
門をくぐる。
今日は、
パンを納める日でもある。
「行こう、セシル」
「はい」
二人は並んで歩き出す。
この条件が、
どんな波紋を生むのかは分からない。
けれど、
自分の言葉で差し出す以上、
それから目を逸らす気はなかった。
エリは、
布包みを胸に寄せた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(朝分) +35
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +55
借金残高
21,435 → 21,380 リラ
セシルの一口メモ
条件を出すとは、
相手を選ぶ行為でもあります。
誰に最初に見せるか。
それは、
自分が何を信じているかの表れです。




