第124話 差し出す先の迷い
夜の麦猫堂。
店を閉めたあとも、厨房の片隅に灯りが残っていた。
エリは作業台に紙を広げ、
その前でじっと座っている。
書いた条件は、三つ。
多くはない。
でも、どれも自分にとって重い。
「……」
文字をなぞる指が止まる。
条件を持つと決めた。
それ自体は、もう揺れていない。
問題は、
これを誰に渡すかだった。
「エリ」
背後から、セシルの声。
「まだ起きていたのですね」
「うん……これ」
エリは紙を少し持ち上げた。
「条件、書いてみた」
セシルは近づき、
正面からその紙を見る。
視線は走ったが、
表情は変えなかった。
「無理のない内容です」
「……そう?」
「はい。現実的です」
少しだけ、肩の力が抜ける。
「でもさ」
エリは紙を戻す。
「これを……
アークに先に出すべきなのか、
ルチアさんに話すべきなのか」
言葉にした途端、
迷いがはっきり形になる。
「アークは連合の人だし、
判断は早いと思う」
「ええ」
「でも、数字と仕組みの話になるよね」
「その可能性は高いでしょう」
エリは頷く。
「ルチアさんは……
条件そのものを聞いてくれそうだけど」
少し間が空く。
「それが、連合にどう伝わるかは分からない」
セシルは、
ゆっくりと腕を組んだ。
「どちらにも利点とリスクがあります」
「だよね……」
「アークに出せば、
公式な判断が下されます」
「うん」
「ですが、
その時点で条件は組織のものになる」
エリの指が、
紙の端をぎゅっと掴む。
「じゃあ、ルチアさんは?」
「個人として受け取ってもらえます」
「……それは安心」
「一方で」
セシルは視線を上げる。
「連合が把握する前に動けば、
余計な誤解を招く可能性もあります」
静かに、
でも確実に重い言葉だった。
「どっちを選んでも、
完全に安全じゃないんだ」
「はい」
即答だった。
エリは、小さく笑う。
「そりゃそうか……」
厨房に、
静かな音だけが残る。
焼き台の余熱が、
まだほんのり暖かい。
「セシル」
「はい」
「もし私が、
間違った相手に出したらどうなる?」
セシルは、
一拍置いて答えた。
「修正します」
「……え」
「最悪の場合でも、
私が動きます」
その声に、
余分な力はなかった。
ただ事実を述べただけ。
「ですが」
続けて、少しだけ柔らかくなる。
「選ぶのは、
エリ自身がよい」
「……責任、感じる?」
「当然です」
「でも、それでも?」
「それでもです」
エリは紙を見下ろし、
深く息を吸った。
誰に渡すか。
どんな順で動くか。
まだ決めきれない。
でも、逃げてはいない。
「……明日までに、
自分で決める」
「それがよろしいでしょう」
セシルは、
静かに頷いた。
灯りを落とす前、
エリは条件の紙を折り畳み、
布に包んだ。
選択は、
もう目の前まで来ている。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(閉店前) +40
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +60
借金残高
21,495 → 21,435 リラ
セシルの一口メモ
条件を渡す相手を選ぶとは、
誰に責任を分けるかを決めることです。
迷うのは自然です。
迷えるということは、
すでに自分の立場を理解している証です。




