第121話 条件の重み
麦猫堂の朝は、相変わらず穏やかだった。
焼き色を確認し、香りを確かめ、
いつもと同じ手順でパンを並べる。
けれど――
その「いつもと同じ」の裏に、
小さな違和感が混じり始めていた。
◇ ◇ ◇
昼前。
連合の印が押された封書が、再び届いた。
「……また?」
エリが思わず声を漏らす。
セシルが中を確認し、短く息を吐いた。
「追加の連絡です。
取引内容の変更ではありませんが……補足が入っています」
「補足?」
「ええ」
セシルは読み上げる。
「納品時刻の厳守。
品質の均一化。
提供数量の安定化に向けた準備要請」
ハンナが眉をひそめた。
「ずいぶん細かく言ってくるねえ」
「悪意ではありません」
セシルは即座に否定する。
「ただし――
これは善意の取引から、一段階進んだ証でもあります」
エリは封書を見つめた。
(守れる内容では、ある)
無茶な条件ではない。
今すぐ破綻する話でもない。
けれど。
(選択肢が、少しずつ減ってる)
そんな感覚が、胸に引っかかった。
◇ ◇ ◇
午後。
店先で常連と話している最中、
エリはふと気づいた。
焼き上がりの時間。
並べる数。
無意識のうちに「連合基準」を意識している自分に。
(これって……)
パンを焼くための判断だったはずなのに、
いつの間にか「守るべき条件」が先に立っていた。
「エリ?」
ハンナの声に、はっとする。
「大丈夫かい。顔、ちょっと固いよ」
「……うん。ちょっと考え事」
ハンナは少し考え、笑った。
「ならいいさ。でもね」
肩をすくめる。
「あたしたちは、連合の下請けじゃない。
パン屋だよ」
その言葉は、軽いようで重かった。
◇ ◇ ◇
閉店後。
帳簿の前で、エリはセシルに尋ねた。
「ねえ、セシル」
「はい」
「これ……今は守れる条件だけど、
この先、増えたらどうなるんだろう」
セシルは、少しだけ言葉を選んだ。
「取引とは、常にそういうものです」
「……うん」
「最初は信用。
次に期待。
最後に条件が増える」
それを否定する調子ではなかった。
むしろ、事実を整理する声音。
「ただし」
セシルは、はっきり言った。
「条件を受け取る側が、
考えるべき時期に入った、ということでもあります」
「考える……?」
「どこまで受けるのか。
どこからは受けないのか。
それを決めなければ、いずれ決めさせられる」
エリの指が、帳簿の端をなぞる。
(選ばれた、って……
こういうことなんだ)
◇ ◇ ◇
その夜。
店の灯りを落とす前に、エリは一人で店内を見渡した。
棚。
窯。
売り場。
どれも、変わっていない。
なのに――
責任だけが、確実に増えている。
(怖い)
そう思う。
でも同時に。
(……考えなきゃ)
逃げたい怖さではなかった。
立ち止まって、選び直すための怖さだった。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 連合経由の定期取引分 +3,900
収入 店頭販売(通常) +22
合計 +3,922
借金残高
17,991 → 14,069リラ
◇ ◇ ◇
帳簿を閉じたあと、
エリは小さく息を整えた。
(条件って……
守るものじゃなくて、選ぶものなんだ)
そう気づいたことが、
この日のいちばん大きな変化だった。
◇ ◇ ◇
セシルの一口メモ
信用が増えるほど、条件も増えます。
問題は、そのすべてを受け入れるかどうか。
選ぶ覚悟を持てた時、
取引は支配ではなくなります。




