第120話 選ばれた先の、静かな現実
麦猫堂の朝は、いつもと同じ匂いから始まった。
小麦と酵母、焼き上がる前の生地の温度。
特別な一日ではない――少なくとも、表向きには。
「エリ、焼き加減、どうだい」
「……うん。今日も大丈夫」
返事をしながら、エリは自分の声が落ち着いていることに気づいた。
数日前まで、胸の奥にあったざわつきが、嘘のように静まっている。
(選ばれた、って……
もっと、怖いものだと思ってた)
連合の催事の話。
条件付きの取引。
注目という名の視線。
どれも、今も消えたわけではない。
けれどそれは、逃げ場を塞ぐ影ではなく、
「ここに立っている」という事実を示す輪郭に変わっていた。
◇ ◇ ◇
昼前、セシルが店の奥から出てきた。
「連合側から、正式な通知が来ています」
差し出されたのは、一枚の控えめな書状。
内容は簡潔だった。
――定期取引、開始。
――数量は抑えめ。
――条件は、現行のまま。
「……思ったより、静かだね」
「だからこそ、価値があります」
セシルは淡々と続ける。
「派手に注目を集める取引ではない。
ですが、継続性があり、信用として積み上がるものです」
ハンナも腕を組み、頷いた。
「いいじゃないか。
いきなり背伸びして潰れるより、よっぽど健全さ」
エリは、書状を胸に抱いた。
(これが……今の私の立ち位置なんだ)
◇ ◇ ◇
夕方。
店を閉めたあと、帳簿を前に三人が並ぶ。
エリが数字を書き込み、最後にペンを止めた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 連合経由の定期取引分 +3,900
収入 店頭販売(通常) +25
合計 +3,925
借金残高
21,916 → 17,991リラ
◇ ◇ ◇
「……減ったね」
数字を見つめながら、エリが小さく息を吐く。
「でも、一気に終わった感じはしない」
「それでいいのです」
セシルは静かに言った。
「これは終わりの始まりではありません。
返し切る道に、確かに乗ったというだけです」
ハンナが笑う。
「借金返済に近道なんてないよ。
でもさ、ここまで来たら――
もう後ろに戻る理由もない」
エリは、うなずいた。
(焦らなくていい。
でも、止まらない)
そう思えたことが、何より大きかった。
◇ ◇ ◇
夜。
店の灯りを落とす前に、エリは一度だけ帳簿を振り返った。
減った数字。
残った数字。
どちらも、確かに自分の足跡だった。
(あと……少しずつ)
静かな覚悟が、胸に根づいていく。
◇ ◇ ◇
セシルの一口メモ
大きな数字は、突然現れるものではありません。
積み上げた信用が、形を変えて戻ってくるだけです。
今は、その循環が始まった段階――
歩みを止めなければ、必ず辿り着きます。




