第119話 私が差し出すもの、守るもの
夜の麦猫堂は、昼とは別の静けさをまとっていた。
窓の外では人の気配が消え、残っているのは焼き台の余熱と、ほのかな小麦の香りだけ。
エリは帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
数字は、まだ大きくは動いていない。
借金残高も、はっきりとそこに残っている。
だけど、不思議と焦りはなかった。
(逃げたいわけじゃない)
その感覚だけは、確かだった。
カウンター越しに、セシルが静かに湯を注ぐ音がする。
「眠れませんか」
「うん……考えてた」
エリは椅子に腰かけ、指先を膝の上で組んだ。
「条件のこと」
セシルの手が、ふと止まった。
「……定まりましたか」
「まだ全部じゃない。
でも、これだけははっきりしてる」
少し間を置いて、エリは顔を上げる。
「私は、借金を返したい。
逃げずに、ここで」
「ええ」
「でもね」
言葉を選びながら続ける。
「全部を差し出してまで、返すつもりはない」
セシルの目が、わずかに揺れた。
「具体的には」
「私の名前も、立場も、過去も。
それを『便利だから』って使われるなら、断りたい」
エリは自分でも驚くほど、落ち着いた声でそう言った。
(前なら、飲み込んでた)
黙って従って、後で自分をすり減らしていたと思う。
「私が提供するのは、パンと技術と労力。
それ以上は……条件次第」
「条件、とは」
「三つある」
エリは指を折る。
「ひとつ。
麦猫堂の名前と、ハンナさんの立場を守ること」
「当然です」
「ふたつ。
私個人の決定権を奪わないこと。
仕事の内容や範囲は、必ず確認する」
セシルは、無言で頷いた。
「そして三つ目」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも、視線は逸らさなかった。
「私は、前に進むけど……
誰かを踏み台にはしない」
静けさが落ちる。
セシルはしばらく考え込むように目を伏せ、やがて口を開いた。
「……それは、優しい条件ですね」
「そうかな」
「はい。
ですが、その分――通りません」
エリは苦笑した。
「だよね。でも、これを下げたら意味がない」
しばらくして、セシルは静かに立ち上がる。
「ならば、その条件を通すための相手を選ばねばなりません」
「……アークか、ルチアさん」
「ええ」
二人の顔が、自然と脳裏に浮かぶ。
秩序と現実を見据える監督官。
人と生活を見ている貴族の奥様。
どちらも、正しい。
そして、どちらも一筋縄ではいかない。
「セシルは……どっちだと思う?」
即答はなかった。
「私は、あなたの選択を支えます」
そう前置きしてから、続ける。
「ですが……
条件を最初に渡す相手は、
最も歪めずに聞く者であるべきです」
エリは、ゆっくりと目を閉じた。
(歪めずに……)
頭に浮かんだのは、机に書類を置いたあの日の眼差しでも、
穏やかにスープを勧めてくれた笑顔でもなく。
その奥にあった、本質を見ようとする目だった。
「……決める」
エリは立ち上がる。
「私が考えた条件は、逃げじゃない。
守るための条件だから」
セシルは、深く一礼した。
「その覚悟があれば、十分です」
夜の麦猫堂に、静かな決意が落ちた。
それは、まだ誰にも渡されていない条件。
けれど確かに、形を持ち始めていた。
外圧が、それを許さなくなるのは――
もうすぐだ。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
収入 — 0
支出 — 0
合計 ±0
借金残高 21,916リラ(変動なし)
セシルの一口メモ
条件を持つということは、
交渉の席に立つ覚悟を持つということです。
あなたはもう、選ばれる側ではありません。




