第11話 貴族街の門をくぐる日
王都の北側。
白壁の邸宅が連なる通りに、私は立ち尽くしていた。
ここは貴族街――かつて、私が馬車で通り抜けていた世界。
だが今は、荷車と籠を抱えて歩く働く側の立場だった。
昨日、〈麦猫堂〉に届いた正式依頼。
「リーベルト侯爵家の午後茶会で、パンと焼き菓子を販売してほしい」
それは没落令嬢となった私にとって、過去と向き合う試練だった。
「緊張しておられますね」
隣を歩くセシルが、いつもの冷静な口調で言う。
「そりゃあ、そうよ。
昔はこの通りを馬車で通ってたんだから」
「今は徒歩で、商人として、ですね」
「……言わなくていいわ」
セシルは口の端をわずかに上げた。
皮肉なのに、どこか優しい。
◇ ◇ ◇
リーベルト侯爵家の庭は、相変わらず完璧だった。
手入れの行き届いた花々、噴水の光、磨かれた石畳。
そこに臨時の販売台を設け、焼きたてのパンを並べていく。
陽だまりパン、ブリオッシュ、クロワッサン。
どれも香ばしく、温かい湯気を立てていた。
――あの日、婚約式を挙げるはずだった式場も、この貴族街の奥にあった。
王家御用達の大理石のホール。
飾りつけも、料理も、花も――全部、あの日のままキャンセルされた。
あれから、私はこの通りを避けてきた。
でも今はこうして、エプロン姿で立っている。
もう祝福される側ではなく、働く側として。
胸の奥が少し痛んだ。
けれど、焼きたての香りがその痛みをやわらげてくれる。
「お嬢様」
セシルが小さく声をかける。
「過去の焦げは、もう取り除きました。
今焼いているのは、未来のパンです」
思わず吹き出した。
涙の味が混じっていたけれど、笑えるようになったのは進歩だと思う。
◇ ◇ ◇
午後の茶会が始まる。
侯爵夫人は優雅にパンを手に取り、微笑んだ。
「まあ、いい香り。まるで陽だまりのようね」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げると、彼女は続けた。
「この香り……昔、リースフェルト家の晩餐で嗅いだような」
心臓が止まりそうになった。
けれど、すぐに息を整えて答える。
「陽だまりの香りは、変わらぬものですので」
その言葉に夫人は微笑み、他の客たちにも勧めてくれた。
次々と手が伸び、パンはみるみる売れていく。
焦げても、冷めても、誰かに喜ばれる――それが不思議で、少し嬉しかった。
販売を終える頃には、台の上は空っぽだった。
セシルが封筒を受け取り、軽く頭を下げる。
中には侯爵家からの正式な支払い証明と個人手当が入っていた。
「……お嬢様、これでまた一歩、返済が進みますね」
「うん。でも、なんだか胸のほうが軽いかも」
門を出ると、夕陽が石畳を照らしていた。
光の色は、あの日のドレスと同じ――けれどもう、涙は落ちなかった。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録項目内容金額
収入出張販売手当(個人分)+150
収入販売歩合+200
合計+350
借金残高24,751 → 24,401リラ
セシルの一口メモ:
貴族街での初陣、完売。
焦げた過去は売れ残りませんでした。
お嬢様の香りは、値段以上の価値があるようです。




