第117話 先に動いたのは連合だった
昼前。
麦猫堂の店内に、いつもとは違う緊張が流れ込んできた。
扉が開いた瞬間、
空気の温度がわずかに下がる。
「失礼します」
低く抑えた声。
監督官アークが、店内に足を踏み入れていた。
「アークさん……」
エリは思わず背筋を伸ばす。
「長くは取りません。状況が動きました」
その一言だけで、
迷っている時間が削り取られる感覚がした。
◇ ◇ ◇
奥の作業台のそばで、三人は向かい合った。
「結論から言います」
アークは一切前置きをしない。
「連合主催の催事について、
外部からの働きかけが増えています」
「外部……」
「街の商人だけではありません。
貴族筋、連合内部の一部、
そして名前を出せない筋も含めてです」
セシルの視線が鋭くなる。
「エリに関する話ですね」
「ええ」
アークは否定しなかった。
◇ ◇ ◇
「あなたは今、選ばないという選択を保留しています」
「……はい」
「ですが外は、それを許しません」
淡々とした声音が、逆に重い。
「参加の意思が不明確なままでも、
名前だけは利用され始めています」
エリの胸が、ひやりと冷える。
(何も決めていないのに……)
◇ ◇ ◇
アークは一枚の紙を取り出した。
「これは、今朝まとめられた内部報告です」
そこには、
催事の目玉候補として扱われる名前が記されていた。
エリの名前が、確かにそこにあった。
「正式決定ではありません。
ですが、動き出している」
「……止める方法は」
自然と、その言葉が口をついて出た。
「あります」
アークははっきり答える。
「あなた自身が、条件を提示することです」
エリの鼓動が強くなる。
◇ ◇ ◇
「条件を?」
「ええ。
何を受け、何を受けないのか。
どこまで許容するのか」
アークは、視線を外さない。
「曖昧な沈黙より、
明確な線の方が、連合は扱いやすい」
「それは……連合のため?」
「結果的には、あなたのためでもあります」
言い切りだった。
◇ ◇ ◇
セシルが一歩前に出る。
「条件は、すでに形になっています」
「知っています」
アークは短く頷いた。
「だから来ました。
それを、私に渡す準備はできていますか」
店内が、静まり返る。
エリは、無意識に指を握りしめていた。
(来た……)
考える時間が、
確かに終わりに近づいている。
◇ ◇ ◇
「……今日、返事はしません」
エリは、はっきり言った。
アークの眉が、わずかに動く。
「理由を」
「整理が必要です。
誰に渡すかではなく、
どう渡すかを」
一瞬の沈黙。
やがて、アークは息を吐いた。
「分かりました。
ですが、猶予は長くありません」
「承知しています」
◇ ◇ ◇
アークは踵を返す前に、ひとことだけ残した。
「選ばないという選択肢は、
もう消えつつあります」
扉が閉まり、
店内にいつもの音が戻ってきた。
◇ ◇ ◇
「……来ちゃったね」
エリの声は、小さかった。
「ええ。想定より早く」
セシルは落ち着いているが、油断はなかった。
「エリ。条件は、守りです。
攻めではありません」
「うん」
エリは、胸の奥で静かに決め始めていた。
(誰に渡すかじゃない。
どう生きたいかだ)
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 通常営業 +26
合計 +26
借金残高 21,696リラ
セシルの一口メモ
待つ時間が削られた時こそ、
本音と覚悟が試されます。
線を引く準備が整ったなら、
あとは渡し方だけです。




