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第116話 決めきれない朝

朝。

麦猫堂の厨房に、いつもの光が差し込んでいた。


生地の匂い。

木の台の冷たさ。

変わらないはずの朝なのに、

エリの胸は落ち着かなかった。


(書いた……でも)


条件は、確かに形になった。

けれど、それを誰に渡すのか。

そこだけが、まだ定まらない。


   ◇ ◇ ◇


「顔、難しいですよ」


仕込みをしながら、

セシルが静かに言った。


「考えてるの、分かる?」


「ええ。かなり分かりやすく」


エリは苦笑して、生地に視線を落とす。


「アークに渡せば、連合として整理されるよね」

「ルチアさんなら、もっと……人として聞いてくれそう」


言葉に出した瞬間、

自分がどちらにも期待していると気づいた。


   ◇ ◇ ◇


「アーク殿の場合」


セシルは淡々と整理する。


「条件は正確に伝わります。

 ただし、判断は合理性が最優先になる」


「数字とか、影響とか……」


「ええ。安全面も含めて、利と不利で判断されるでしょう」


エリは、小さく息を吐いた。


   ◇ ◇ ◇


「ルチア様の場合」


一拍置いて、続ける。


「あなたの心情は、より深く理解されます。

 ですが、その分……感情を動かす可能性もある」


「良い方向にも、悪い方向にも?」


「はい。善意は、時に周囲を動かしすぎます」


エリは、手を止めた。


(どっちも……怖い)


正しく伝わるのも怖い。

優しく受け取られるのも、少し怖い。


   ◇ ◇ ◇


「エリ」


セシルが、低く呼ぶ。


「条件は、誰を信じるかを書くものではありません」


「……」


「あなた自身を守るための線です。

 相手が誰であっても、内容は変わらないはず」


その言葉が、胸に残る。


(変えない……か)


   ◇ ◇ ◇


開店前の静かな時間。

店先で、エリは朝の街を見た。


人が行き交い、

噂も、不安も、

知らないところで動いている。


(どちらに渡しても、

 世界は止まらない)


だったら。


「……もう少し、考えたい」


正直な言葉だった。


「構いません」


セシルはすぐに答える。


「決める時間を取れるのは、

 今が最後かもしれませんから」


   ◇ ◇ ◇


焼き始めの合図が、厨房に響く。


ハンナの声が、いつも通り明るい。


「二人とも、焼きに入るよ!」


「うん!」

「行きましょう」


作業に戻る足取りは、

まだ迷いを含んでいた。


それでも、

条件を書けた自分は、昨日より確かに前にいる。


   ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目 内容 金額リラ

収入 通常営業 +28

合計 +28


借金残高 21,722リラ


セシルの一口メモ


迷っているという事実そのものが、

無自覚な流れに飲まれていない証拠です。

選ぶ覚悟は、

迷うところから始まります。

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