第115話 条件を書く夜
夜。
麦猫堂の明かりが落ち、
厨房には小さなランプだけが灯っていた。
焼き台は冷え、
昼の香りはすでに残っていない。
エリは作業台に向かい、
白い紙を前に、何度も息を整えていた。
(書くだけなのに……こんなに手が止まる)
条件。
選ぶための言葉。
逃げるためでも、
従うためでもない。
自分が進むための線を、
自分で引く。
◇ ◇ ◇
「無理に整えなくて大丈夫です」
セシルが、湯気の立つ茶を置いた。
「条件は、綺麗な文章である必要はありません。
意図が誤られないことが、最優先です」
「うん……」
エリはペンを握り直す。
一行目で止まり、
二行目を消し、
また最初から書き始める。
(何を守りたい?)
(何を失いたくない?)
頭の中で問いが巡る。
◇ ◇ ◇
エリは、ゆっくりと口に出した。
「まず……量は、今以上に増やせない」
「理由は」
「質を落としたくない。
それと……私が、続けられる形でやりたいから」
セシルが小さく頷く。
「続けることは、立派な条件です」
「次に……名前の扱い」
ペン先が、止まる。
「家名は、使わない。
パン屋としての名前だけで、評価されたい」
静かな決意が、言葉に滲む。
◇ ◇ ◇
「最後に……」
エリは、少しだけ迷った。
「安全」
「……具体的には」
「誰かに追われる形で、
無理な露出はしたくない」
言い切ったあと、
胸が少しだけ軽くなった。
(怖いって、書いていいんだ)
強くない部分を含めても、
条件になる。
◇ ◇ ◇
紙の上に、三つの項目が並んだ。
量
名
安全
華やかさはない。
だが、嘘はなかった。
「……これでいい?」
「はい」
セシルは即答した。
「これは、要求ではありません」
「あなたが立つ位置の宣言です」
エリは、そっとペンを置いた。
◇ ◇ ◇
外では、風が音を立てていた。
遠くで扉が閉まる気配。
誰かの足音。
世界は、静かに動いている。
(これを、誰に渡すか)
答えは、まだ一つに定まらない。
だが、
進むための芯は、書けた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 — 0
合計 0
借金残高 21,750リラ(変動なし)
セシルの一口メモ
条件を書くとは、
道を閉ざすことではありません。
進める範囲を、
自分で決めるということです。




