第113話 先に来たのは
三日の期限が切られた、その翌朝。
麦猫堂の空気は、いつもと変わらないはずなのに、
どこか張り詰めていた。
エリは焼き上がったパンを布で覆いながら、
何度も扉の方に視線を向けてしまう。
(今日は……来るかもしれない)
理由は分からない。
ただ、そう思った。
◇ ◇ ◇
カラン、と鈴が鳴った。
「いらっしゃいま……」
声が、途中で止まる。
扉の向こうに立っていたのは、
見覚えのある黒い外套。
監督官アークだった。
「朝から失礼します」
その声は相変わらず淡々としている。
だが、今日は一段と無駄がなかった。
「……どうぞ」
エリは短く答え、
店の奥へ案内する。
セシルはすでに気配を察していたらしく、
静かに一歩後ろに立った。
「今日は、期限についての話でしょうか」
セシルの問いに、
アークは頷いた。
「ええ。回りくどいことは言いません」
椅子に腰を下ろし、
アークはまっすぐエリを見る。
「三日以内という期限は、
あなたの思考を急かすためのものではありません」
「……でも、待ってはくれない」
「その通りです」
即答だった。
「連合は、待たない組織です。
ですが、今回は一つだけ、例外を用意しました」
「例外……?」
アークは懐から一枚の紙を取り出す。
「あなたが提示しようとしている条件。
その内容次第では、
正式な回答期限を先送りする余地があります」
エリの心臓が強く跳ねた。
「それって……」
「条件を、こちらに渡す気があるなら、
連合は話し合いの席につく」
セシルの目が、わずかに細くなる。
「つまり、先に主導権を握れと」
「そう受け取って構いません」
アークは目を逸らさない。
「ただし」
声が低くなる。
「条件は、あなた自身の言葉でなければ意味がない。
誰かに守られた文面では、通りません」
エリは、
胸の奥にしまっていた紙の感触を思い出す。
(準備は、してた)
(でも……)
「もう一つ」
アークは続けた。
「この話は、今日ここに来たことで、
すでに別の場所にも伝わっています」
「別の……」
「クレアル家です」
空気が、ぴんと張った。
(もう、ルチアさんにも……)
「向こうが黙っている保証はありません」
アークは淡々と言う。
「今日中に動く可能性もある」
つまり。
今日という一日は、
ただの一日ではない。
「……分かりました」
エリは、はっきりと答えた。
「考える時間は、もう十分です」
アークが、わずかに目を細める。
「では」
「条件は、私が直接出します」
迷いは、もう声に出なかった。
「どこに、どう出すか。
それは……これから決めます」
一瞬の沈黙。
やがてアークは、ゆっくりと立ち上がった。
「いいでしょう」
「連合は、あなたの動きを待ちます。
待てる範囲で、ですが」
それだけ言うと、
彼は店を出ていった。
◇ ◇ ◇
扉が閉まったあと。
「……先に来たのは、アークだったね」
エリは息を吐く。
「ええ」
セシルは短く答えた。
「ですが、もう一方も動くでしょう」
「うん」
エリは頷き、
胸に手を当てる。
(もう、選ばないではいられない)
今日は、
分かれ道の前日。
本当の選択は、
これからだった。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +24
合計 +24
借金残高 21,796 → 21,772リラ
セシルの一口メモ
先に来た者が、
主導権を握るとは限りません。
握るかどうかを決めるのは、
常に当事者です。




