第110話 譲れない線を言葉にする
連合の男が去ったあとも、
麦猫堂の中には重たい沈黙が残っていた。
焼き窯の熱は変わらない。
パンの香りも、いつも通りだ。
それなのに、空気だけが少し歪んでいる。
「……条件、か」
ハンナが腕を組み、小さく唸った。
「正直に言うよ、エリ。
あたしは広げたい。
チャンスが来てるのは確かだからね」
「うん」
エリは頷いた。
否定する気はなかった。
「でも、無茶はしたくない」
ハンナは続ける。
「潰れ方を選ぶほど、若くもない」
その言葉に、エリは深く息を吸った。
「私も……同じです」
二人の視線が交わる。
「全部を取ろうとしたら、壊れるって思いました」
エリはゆっくり言葉を選んだ。
「だから……最初に線を引きたいんです」
セシルが静かに問いかける。
「その線とは」
一瞬、迷いが走る。
だが、もう曖昧には戻らない。
「量です」
エリははっきり言った。
「今以上の納品は増やさない。
少なくとも、私一人で焼く量は」
ハンナが目を細める。
「連合は拡大を求めてくるよ」
「分かってます」
エリは頷いた。
「でも、焼きの質を落としてまで応じるのは嫌です」
胸の奥が、不思議と静かだった。
「それから、もう一つ」
セシルが少し身を引き、続きを促す。
「名前です」
「名前?」
「私の名前を、前に出されるのは避けたいです」
エリは言葉を続けた。
「しばらくは……麦猫堂として、で」
沈黙。
だが、否定はなかった。
「顔と評判が先に立ちすぎてます」
エリは机の上の書類を思い浮かべていた。
「今はまだ、支える土台が追いついてない」
セシルがゆっくり頷く。
「拡大は段階的。
量は制限。
名は盾にする」
「はい」
ハンナはしばらく考え込み、やがて笑った。
「……いいじゃないか」
少し荒いが、納得の笑みだ。
「それなら、折れる場所も分かる」
エリは胸の奥がじんと熱くなった。
「エリ」
セシルが低く、しかしはっきり言う。
「それを誰に、どう伝えますか」
その問いに、すぐには答えが出ない。
アークに出すか。
ルチアを通すか。
それとも、連合に直接か。
だが一つだけ、確かなことがあった。
「条件を出すなら……曲げません」
そう言い切った瞬間、
不安より先に、覚悟が立ち上がった。
外が壊しに来るなら、
こちらは形を定めるしかない。
守る線を持った時点で、
もう受け身ではいられないのだから。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +22
収入 納品分 +18
合計 +40
借金残高 21,876 → 21,836リラ
セシルの一口メモ
条件とは、拒絶ではありません。
続けるための形を示すことです。
言葉にした時点で、半分は守れています。




