第109話 崩される前提
朝の仕込みを終えた麦猫堂に、
いつもとは違う空気が入り込んできていた。
客足はある。
注文も途切れていない。
数字だけを見れば、昨日までと変わらないはずだった。
それでも。
(……ざわついてる)
エリは無意識に、店の入口を何度も見ていた。
「顔が硬いですよ」
セシルが低く声をかける。
「うん……なんか、今日はね」
理由を言葉にできず、エリは首を振った。
扉が開いた。
入ってきたのは客ではない。
商人連合の印が入った外套を羽織った男だった。
「失礼」
丁寧ではあるが、距離を詰めてくる声音。
「連合からの確認で来ました」
ハンナが一歩前に出る。
「確認? うちは呼ばれてないよ」
「定例のものです」
男は微笑み、紙束を広げた。
「最近、納品先と取引量が増えていますね」
エリの背筋が静かに伸びる。
「準会員としては、少々突出しています」
その言葉は、指摘というより前振りだった。
「品質の安定。
供給体制。
労働負荷」
淡々と項目が並べられる。
「基準を満たしていないと判断された場合、
是正勧告、もしくは一時的な取引制限もあり得ます」
店内の空気が、ひとつ温度を下げた。
「ちょっと待ちな」
ハンナが声を強める。
「基準? うちはちゃんと焼いて、ちゃんと納めてる」
「ええ」
男は頷く。
「だからこそ、今のうちに整えていただきたい」
視線が、エリに向く。
「個人の力量に依存しすぎている」
その一言が、胸に響いた。
(……個人)
「規模拡大か、負荷分散か。
選ばねば、いずれ破綻します」
親切そうな言葉。
だが、行間に別の意味が滲んでいる。
セシルが静かに前へ出た。
「それは、今すぐの判断を迫るものですか」
「期限は設けません」
男は即答する。
「ですが……注目されていることは、事実です」
それだけ言い残し、男は書類を置いて去っていった。
扉が閉まる。
数秒、誰も動かなかった。
「……壊しに来たね」
ハンナが低く吐き出す。
エリは、机に残された紙を見つめたまま、言葉が出なかった。
(拡大か、分散か……)
どちらも、今の自分たちには重い。
「エリ」
セシルが名を呼ぶ。
視線を上げると、
彼はいつもと同じ落ち着いた顔をしていた。
「外は、エリが積み上げてきた前提を壊しに来ています」
「……うん」
「だから、次は選ぶ番です」
逃げるか。
押し返すか。
条件を、上書きするか。
エリは、帳簿を思い出していた。
数字が示した線。
続けられる範囲。
(全部は取らないって……決めたよね)
視線が定まる。
「セシル」
ゆっくり、はっきり言った。
「私、次は……守る条件を出す」
セシルは、短く頷いた。
「それでこそです」
外は、壊しに来ている。
だが中には、もう足場がある。
崩される前提で動くなら、
こちらも前提を選び直すだけだ。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +24
収入 納品分 +16
合計 +40
借金残高 21,916 → 21,876リラ
セシルの一口メモ
守るべき線を自覚した瞬間、
外圧は交渉に変わります。
ここからは、崩される側ではありません。




