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第10話 パン屋に春が来た日

雨が上がった朝は、街がひとつ呼吸をしたみたいだった。

 屋根から滴る水がきらきら光り、石畳の上を小鳥が跳ねる。

 昨日までの灰色が、嘘のように消えていた。


「おはようございます、お嬢様。空気の湿度、理想値です」


「つまり、パンがうまく膨らむ日ってことね」


「事実申告です」


 セシルの声に笑いながら、私は窯の火を入れた。

 雨で洗われた空気が、パンの香りを遠くまで運んでくれそうだった。


     ◇ ◇ ◇


 午前の光が差し込み、店先に並ぶ陽だまりパンがまぶしいほどだった。

 通りにはまだ雨上がりの名残が残っている。

 そのせいか、今日の客足はゆっくり。


 けれど、不思議と穏やかな気持ちだった。

 昨日の雨の中で、パンを分けたあの老人の笑顔が、今も胸に残っていた。


 そんなとき、店のドアベルが鳴った。

 見慣れない若い男が入ってくる。

 服は整い、背筋も真っすぐ。仕立ての良い外套に、品のある立ち振る舞い。


「おはようございます。麦猫堂はこちらでよろしいでしょうか?」


「はい、ようこそ。……初めてのお客様ですね?」


 男は小さく会釈し、香ばしい空気を深く吸い込んだ。


「この香り……。

 先日の雨の日、通りで配られた温かいパンの噂を耳にしまして。

 私どもの奥様がぜひ一度食べてみたいと」


「奥様?」


「はい。リーベルト侯爵家のご令夫人です」


 胸がどくん、と鳴った。

 リーベルト侯爵家――貴族街の上層にある屋敷の名。

 没落前、何度か社交会で見かけたことがある。


「お嬢様、この香り、屋敷でも話題になっております。

 『あの下町のパン屋の香りが、春を運んできた』と……」


「春を、運んできた……?」


「もしよろしければ、明日の午前に屋敷まで出張販売にお越しいただけませんか。

 奥様は外出が難しく、直接買いたいと仰っております」


「えっ……! もちろん――」


「お嬢様」


 セシルの静かな声が遮った。


「その件、店主ハンナ殿に確認を取ってからお返事いたします」


「あ……そ、そうよね。わたし、まだ雇われてるんだった」


「事実申告です」


 使用人の男は穏やかに微笑んだ。


「承知しました。お手数をおかけしますが、本日のうちにお返事をいただければ」


「はい、すぐに伝えます!」


 男は深く一礼し、雨上がりの光の中へと去っていった。


     ◇ ◇ ◇


 しばらくして、仕込みから戻ってきたハンナに事情を話すと、

 彼女は腰に手を当てて笑った。


「なに、うちのパンが貴族の口に入るって? 面白いじゃないか。行っといで」


「いいの? でも、わたしが行って失敗したら……」


「そのときはそのときさ。成功したら、うちの看板が上がる。

 パン屋ってのはね、挑戦して膨らむ生き物なんだよ」


 その言葉に、胸の奥がじんと温かくなった。

 ハンナは帳面から小さな封筒を取り出して私に渡す。


「これ、交通費と包装代。ちゃんと領収も取っときな」


「はい……ありがとうございます!」


 セシルが軽く頭を下げる。


「店主殿、責任をもって同行いたします」


「わかってるよ。あんたの冷静さには助けられてる」


 そのやり取りを聞きながら、

 私は働くということの意味を、少しだけ理解できた気がした。


     ◇ ◇ ◇


 夕方。

 窓の外の風に混じって、どこからか花びらがひとひら舞い込んだ。

 淡い桜色。

 まだ冬の名残が残る風の中、ひとつだけ、確かな春の香りがした。


「セシル、見て。桜……だよね」


「季節外れの落下物です」


「風流って言いなさい」


「了解しました。風流です」


 二人で笑う。

 雨の翌朝に舞い込んだ、思いがけない春の知らせ。

 それは、借金返済という長い冬の中に差し込む、最初の光だった。


     ◇ ◇ ◇


本日の収支記録

項目内容金額リラ

収入日給(通常営業)+25

合計+25

借金残高24,776 → 24,751


セシルの一口メモ:

貴族街からの正式依頼。

本日は準備段階ゆえ、収入変動は平常通り。

ただし、期待値は過去最高です。

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