第107話 先に触れた手
朝の空気は澄んでいた。
麦猫堂の店先に差し込む光は穏やかで、昨日までと何も変わらない。
だが、エリの中でははっきりと違いがあった。
(もう、待つ段階じゃない)
条件を書いた紙は、きちんと折って封筒に収めてある。
守ると決めた線。
越えさせないと決めた線。
「エリ」
背後から、セシルの声。
「はい」
「今日の動きですが」
短く言葉を切り、続ける。
「昼過ぎに、連合側から使いが来ます。
おそらく、確認だけでは終わりません」
「……条件の話?」
「はい。
こちらが動く前に、触れておきたいのでしょう」
エリは小さく息を吸った。
(やっぱり、外側は待ってくれない)
◇ ◇ ◇
昼前。
来客は普段通りだった。
パンを選ぶ手。
香りに足を止める人。
エリは変わらず、一つひとつ丁寧に応対した。
(仕事は、仕事)
それだけは揺らがない。
◇ ◇ ◇
昼を少し回った頃。
扉が開き、見覚えのある文官が入ってきた。
控えめな身なり。
だが、目的のはっきりした足取り。
「エリ様。少し、お時間を」
「はい」
セシルが横に並ぶ。
店の奥、簡素な卓を挟んで向き合う。
「本日は、監督官アークの代理として参りました」
「聞いています」
「結論から申し上げます」
文官は紙を取り出す。
「条件について。
連合としては、大枠で受け入れ可能です」
エリの胸が、わずかに動く。
「ただし」
予想通りの言葉。
「文言の一部について、調整をお願いしたい」
「どこですか」
即座に問う。
文官は、指で一行を示した。
活動頻度。
公開範囲。
同席条件。
(削る気だ)
セシルが静かに口を開く。
「それは、条件の核心です」
「承知しています」
文官は頷く。
「だからこそ、正式な場ではなく、今ここでお話を」
エリは、文官をまっすぐに見た。
「それは、今決めろという意味ですか」
「近いです」
空気が、ほんの少し張る。
「エリ様は、慎重でいらっしゃる。
ですが街は、あなたを待ちません」
「……私も、待っていません」
エリの声は低く、揺れなかった。
「条件を削るなら、その話はここで終わりです」
文官が一瞬、言葉を失う。
「私が出した条件は、交渉材料じゃありません」
はっきりと言い切る。
「守れるかどうかじゃなく、
守る前提で差し出したものです」
◇ ◇ ◇
沈黙。
文官は紙を畳んだ。
「分かりました。
本日のやり取りは、そのまま上に伝えます」
立ち上がり、一礼。
「――なお」
去り際に、付け加える。
「動きが早いのは、連合だけではありません」
「……どういう意味ですか」
「街の外側も、内側も。
あなたに触れたい者が増えています」
それだけ言い残し、扉が閉まった。
◇ ◇ ◇
静けさが戻る。
「……強かったですね」
セシルが言う。
「先に、触れさせちゃいけないと思った」
エリは、封筒を握り直した。
「条件は、揺らさない。
誰が来ても」
「それでこそです」
セシルの声は、確かだった。
◇ ◇ ◇
夕方。
街路の向こうで、誰かがこちらを見ている気配があった。
足を止めるでもなく、消えるでもなく。
(見られてる)
だが、今日は目を逸らさなかった。
(触れさせない。
でも、逃げもしない)
それが、今の立ち位置。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売 +22
収入 定期納品分 +18
合計 +40
借金残高 21,604リラ(前日比 -40)
セシルの一口メモ
早く触れようとする者ほど、
境界線を曖昧にしたがります。
線を引いた者だけが、主導権を持てるのです。




