第106話 条件が意味を持つとき
朝の麦猫堂は、いつもと変わらない匂いで満ちていた。
焼き上がるパンの香り。
石床に落ちる足音。
開店前の、少しだけ張り詰めた静けさ。
だが、エリの胸の内は違った。
(条件は決めた。
でも、それをどう扱われるかは……まだ分からない)
昨日の文官の言葉が、何度も頭をよぎる。
参加前提。
調整。
静かな存在ではいられない。
「エリ」
セシルが声をかける。
「はい」
「条件を守る、という覚悟は固まっていますね」
「うん。守る。
それが無理なら……受けない」
セシルはそれ以上言わず、短く頷いた。
◇ ◇ ◇
昼前、店の外が少し騒がしくなった。
「ここが……」
「例の店だよ」
「噂の……」
視線が増えている。
期待と興味が、混ざった視線。
エリは、一つひとつの客に丁寧に対応した。
声を落ち着け、笑顔を崩さず。
(これが私のやり方)
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、店の奥で一息ついたとき。
セシルが、書類を一枚取り出した。
「連合から、非公式の確認文です」
「……もう?」
紙には、淡々と要点だけが書かれていた。
・催事参加の可否
・条件提示の有無
・回答期限
「期限……」
「三日です」
短い。
だが、想定していた範囲だった。
「エリ」
セシルは静かに言う。
「条件は、盾になります。
しかし同時に、刃にもなり得る」
「うん……分かってる」
条件を出すという行為は、譲れない線を示すこと。
それは相手にとって、都合が悪い場合もある。
(それでも……意味のない条件は出さない)
◇ ◇ ◇
夕方。
ハンナが帳場から顔を上げた。
「なんだい、二人とも難しい顔して」
「連合の話です」
「……そうかい」
ハンナは一瞬だけ黙り、それから言った。
「受けるにしても断るにしても、
エリが決めたことなら、あたしは止めないよ」
その言葉が、胸に染みる。
「ありがとう、ハンナさん」
「ただし」
ハンナは指を立てた。
「自分を安売りするのだけは、絶対にやめな」
エリは、はっきりと頷いた。
◇ ◇ ◇
閉店後。
エリは、条件を書いた紙を改めて見つめる。
派手ではない。
だが、曖昧でもない。
(これが、私の線)
守れるかどうかではなく、
守ると決めた線。
「セシル」
「はい」
「条件ってね……
逃げるための言い訳じゃなくて、
立つ位置を示すものだと思う」
セシルは、ほんのわずかに目を細めた。
「ええ。
意味を持ち始めていますよ」
◇ ◇ ◇
夜の帳が降りる頃。
エリは、次に誰へ話すべきかを考えていた。
アークか。
ルチアか。
あるいは――
順番を、間違えないこと。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売 +24
収入 定期納品分 +18
合計 +42
借金残高 21,644リラ(前日比 -42)
セシルの一口メモ
条件とは、拒絶ではなく宣言です。
何を守り、何を差し出すか。
それを定めた瞬間、人は立場を得ます。




