第105話 静かな圧力
朝の開店準備を終えた頃、
麦猫堂の前に、一台の落ち着いた馬車が止まった。
派手ではない。
だが、無視できない種類の気配。
「……来たか」
セシルが小さく呟く。
扉を開けて現れたのは、商人連合の制服を着た若い文官だった。
顔立ちは柔らかいが、目が忙しなく店内を観察している。
「エリシア様。
本日は公式な用件ではありません。少しだけ、お時間を」
公式ではない。
その言葉が、逆に重く響いた。
「どうぞ……」
エリはカウンター脇の席へ案内した。
◇ ◇ ◇
「連合としてはですね」
文官は丁寧に前置きをした。
「現在の状況を、とても好意的に見ています。
数字も、評判も、どちらも申し分ない」
「ありがとうございます」
「ですので、少しだけ……
動きを調整していただけないかと」
エリの胸が、微かに締まる。
「調整、とは?」
「催事の話です。
まだ決断前だと伺っていますが、
街では参加前提の噂が出始めておりまして」
(もう……止まらないんだ)
「正直に言います」
文官は声を落とした。
「参加しない、という選択は、
波風を立てやすくなっています」
それは脅しではなかった。
だが、事実を盾にした圧力だった。
◇ ◇ ◇
「選ばない自由は、もちろんあります」
文官は続ける。
「ですがその場合、
連合としては明確な理由を求められる」
理由。
説明。
正当性。
それは、エリが条件として守ろうとした部分だった。
「条件を出す、という選択肢もありますよ」
「……どんな形で、ですか」
「参加を前提にした調整、という形です。
日程、露出、名前の扱い……
内部で配慮する余地はあります」
それは、一見すると歩み寄りだった。
しかし。
(最初から参加前提になってる)
エリは、折り畳んだ紙の感触を思い出す。
◇ ◇ ◇
「少し、考えさせてください」
即答はしなかった。
文官は頷く。
「もちろんです。
ただ……時間は、あまり多くありません」
去り際、文官は一言だけ残した。
「街は、もうエリシア様を
静かな存在としては見ていません」
◇ ◇ ◇
扉が閉まる。
店の中に、重い沈黙が落ちた。
「……静かじゃ、いられなくなってきたね」
エリが小さく言う。
「はい」
セシルは即座に答えた。
「外側が、選択肢を狭めに来ています」
「でも」
エリは顔を上げた。
「条件は、もう決めた。
崩さない」
その声は、震えていなかった。
「条件を歪めたまま受けるくらいなら、
最初から断る」
セシルは、深く息を吸う。
「……その覚悟があるなら、
次は、誰にどう伝えるかです」
アークか。
ルチアか。
あるいは、その両方か。
(逃げないって、こういうことなんだ)
◇ ◇ ◇
夕方。
いつもの常連が、パンを受け取りながら言った。
「最近、忙しそうだねえ」
「はい。でも……大丈夫です」
自分に言い聞かせるように、エリは微笑んだ。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売 +28
収入 定期納品分 +18
合計 +46
借金残高 21,686リラ(前日比 -46)
セシルの一口メモ
圧力は、拒めば消えるものではありません。
形を与え、受け止め方を決めることが、防御になります。




