第103話 崩さないための線引き
朝の仕込みを終えたころ、
麦猫堂の店内には、ほどよい静けさが戻っていた。
焼き上がったパンの香り。
帳簿に記された、昨日の数字。
(……ちゃんと減ってる)
借金残高の数字を見て、エリは小さく息をついた。
派手ではない。
けれど、確実に前へ進んでいる。
◇ ◇ ◇
「最近、客層が変わってきたねえ」
ハンナが棚を整えながら言う。
「はい。急いで買う人より、目的を持って来てくれる人が増えました」
「それは良い兆しだよ。長く続く店の形さ」
エリは頷きながらも、心のどこかで別の気配を感じていた。
(増えすぎないように、ちゃんと見ないと)
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
店の前に、見慣れぬ男が立った。
身なりは整っているが、どこか落ち着かない。
通りを一度見回してから、店に入ってくる。
「麦猫堂さんで、合ってますよね」
「はい。いらっしゃいませ」
「実は……」
男は声をひそめた。
「知り合いの商人から聞いたんですが、
ここ、連合の催事に関わってるって本当ですか」
胸が、わずかに硬くなる。
「詳しい話はしておりません」
セシルが横から、静かに答えた。
男は少し気まずそうに笑う。
「いえ、悪い意味じゃなくて。
もし今後、大きくなるなら……先に話をつけておきたいなと」
(また……この感じ)
エリは、少し考えてから口を開いた。
「申し訳ありません。
現時点では、新しいお取引はお受けしていないんです」
はっきりとした声だった。
男は意外そうに眉を上げる。
「チャンスを逃すかもしれませんよ?」
「その可能性も、承知しています」
エリは目を逸らさなかった。
「でも、今の規模を崩さないことのほうが、大切なんです」
男は一瞬黙り、やがて肩をすくめた。
「……分かりました。また機会があれば」
店を出ていく背中を、エリは静かに見送った。
◇ ◇ ◇
「よく言えましたね」
セシルが低く言う。
「断るの、ちょっと怖かったけど……」
エリは手を握りしめた。
「でも、流されそうになるたび、
『何のために減らしてるのか』って思い出すんです」
借金。
体力。
店の空気。
「崩したら、取り戻すのに倍かかる」
「ええ。正しい判断です」
◇ ◇ ◇
夕方。
常連たちがぽつぽつと訪れ、
いつものリズムで一日が閉じていく。
(選ばない、って決めたけど……)
何も拒んでいるわけじゃない。
ただ、線を引いているだけだ。
守るための線。
続けるための線。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売 +28
収入 定期納品分 +18
合計 +46
借金残高 21,776リラ(前日比 −46)
セシルの一口メモ
守るために引いた線は、
前に進むための境界でもあります。
越えない勇気が、明日を保ちます。




