大102話 積み上げるという選択
朝の空気は、少しひんやりしていた。
麦猫堂の戸を開けると、街の気配が静かに流れ込んでくる。
(昨日は……確かに減った)
数字は嘘をつかない。
一日分の努力が、そのまま線になって残っている。
「よし、始めよう」
エリはエプロンを締め直し、粉に手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
午前の仕込みは順調だった。
余計な力を入れず、生地の声を聞くように捏ねる。
「最近、無理しなくなったね」
ハンナの言葉に、エリは少しだけ笑う。
「数字を見て、分かったんです。一日で取り戻そうとすると、全部歪むって」
「いいじゃないか。商売は続けるものだよ」
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
◇ ◇ ◇
昼前、店の前に立つ人影が増える。
「噂の陽だまりパン、ありますか」
「クレアル邸に納めてるって聞いて」
ひとり、またひとり。
派手な呼び込みはしない。
必要な人に、必要な分だけ。
(欲張らない……でも、逃げない)
エリは笑顔で応対し、パンを手渡した。
◇ ◇ ◇
午後、セシルが戻ってくる。
「連合方面に、大きな動きはありません」
「そっか……」
少し、肩の力が抜けた。
「ですが、静かな時ほど、備えは必要です」
「うん。分かってる」
机の上には、簡単な計画表。
無理のない生産数、休みの配分、借金返済の目安。
「今日も、積み上げだね」
「はい。積み上げです」
その言葉に、迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、常連の老夫婦が立ち寄る。
「最近、毎日食べてるよ」
「体に馴染む味だね」
その何気ない一言が、何よりの励みだった。
(選ばなくても、選ばれてる)
派手な舞台に立たなくても、
ここには確かな居場所がある。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売 +30
収入 定期納品分 +18
合計 +48
借金残高 21,822リラ(前日比 −48)
セシルの一口メモ
積み上げとは、焦らないことではありません。
毎日同じ方向を見る覚悟のことです。




