第101話 数字が動き出す音
朝の麦猫堂は、いつもより少しだけ静かだった。
パン生地をこねる音、薪が弾く小さな音、窓から差し込む淡い光。
どれも変わらないのに、エリの胸の奥では、確かに何かが動いていた。
(始まったんだ……今度は、数字の話が)
机の上には、昨日まとめた簡単な帳面がある。
売上、原価、残る時間、そして借金残高。
視線を落とすと、逃げ場はなかった。
「難しい顔だね」
ハンナが肩越しに覗き込み、からりと笑った。
「連合の話かい?」
「はい。でも……不思議なんです。怖いのに、前より落ち着いてて」
「それはね、エリ。選ばされた仕事じゃないからさ」
ハンナの言葉に、エリは小さく息を吐いた。
(条件を出して、納得して受けた仕事……)
連合主催の催事は、まだ決めていない。
でも、話を断ち切ったわけでもない。
その狭間にいる今だからこそ、数字と向き合う覚悟が生まれていた。
◇ ◇ ◇
昼前、セシルが帳面を手に近づいてくる。
「現状の確認をしましょう、エリ」
「はい」
声は震えなかった。
「まず、クレアル邸の定期納品。これは安定収入です。ただし数量は固定。無理な増加はできません」
「分かってる。ここは崩したくない」
「次に、店頭販売。噂の効果で伸びていますが、波があります」
セシルは淡々と数字を指で追う。
「重要なのは、借金返済に回せる余剰を確保すること」
エリは頷いた。
「一気に返そうとしない。毎日、確実に減らす」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
セシルの目が、ほんのわずかだけ和らぐ。
「良い判断です。完済は、速度よりも持続ですから」
(持続……)
数字は敵じゃない。
積み上げた分だけ、ちゃんと応えてくれるものだ。
◇ ◇ ◇
午後、常連の客が二人、パンを手に笑顔を向けた。
「最近、安定して美味しいね」
「忙しくなったのに、味が変わらない」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(これも……積み上げ)
大きな跳ね上がりはなくてもいい。
今日は一歩。
明日も一歩。
閉店後、エリは帳面に数字を書き込んだ。
線が一本、確かに引かれる。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売 +28
収入 定期納品分 +18
合計 +46
借金残高 21,870リラ(前日比 −46)
セシルの一口メモ
数字が動く音は小さいものです。
しかし、それを聞き取れる者だけが、最後まで歩けます。




