第99話 条件が呼ぶ波紋
その日の午後。
麦猫堂の店先は、いつもと変わらない匂いに包まれていた。
焼き立てのパン。
通りを行き交う人々。
聞き慣れた笑い声。
それなのに、エリの胸は落ち着かなかった。
(もう……動き出してる)
自分が条件を出した、その瞬間から。
◇ ◇ ◇
「聞いた?」
店の前で、声を潜めた会話が漏れた。
「連合の催事、出るかどうかで揉めてるらしいよ」
「揉めてる?」
エリの手が、一瞬止まる。
「本人が条件を出したって話だ」
「条件? 準会員が?」
「なんでも、派手に売り出されるのを嫌がったらしい」
空気が、ひとつざわついた。
「へえ……変わってるね」
「普通は喜びそうなもんだけど」
エリは何も言わず、生地を整え続けた。
(もう……噂になってる)
◇ ◇ ◇
夕方。
セシルが、いつもより少し早めに戻ってきた。
「エリ」
声が低い。
「もう、連合内で話が回り始めています」
「……早いね」
「ええ。思った以上に」
セシルは店の外を一度見やり、続けた。
「条件を評価する者と、
生意気だと受け取る者。
意見は割れています」
エリは深く息を吸った。
「……覚悟はしてたつもりだった」
「ですが、問題はそれだけではありません」
◇ ◇ ◇
セシルは声を落とす。
「街の商人の一部が、
あなたが条件を出したことを
勝手に解釈し始めています」
「解釈?」
「保身だ。
利用されるのを嫌がっている。
裏に何かあるのでは、という憶測です」
エリの胸が、ちくりと痛んだ。
(そう見える人もいるんだ……)
「そして――」
セシルの視線が、店の奥ではなく外に向いた。
「影の動きも、活発になっています」
◇ ◇ ◇
その頃。
細い路地裏で、二人の男が低く会話していた。
「聞いたか」
「ああ。催事に条件を出したそうだな」
皮肉混じりの笑い。
「自分がどれだけ注目されてるか、
理解してないのか、それとも――」
「利用価値があると踏んでるか」
短い沈黙。
「どちらにせよ、放っておけなくなった」
「だな。
もう、選ばないという選択はできない」
◇ ◇ ◇
麦猫堂の厨房では、ハンナが腕を組んでいた。
「ずいぶん騒がしくなってきたね」
「……うん」
「後悔してる?」
エリは、少し考えてから首を振った。
「してない。
怖いけど……戻りたくない」
ハンナはふうっと息を吐き、口角を上げた。
「ならいいさ。
あたしは、あんたがパンを焼く限り味方だよ」
その言葉に、胸が少し軽くなる。
◇ ◇ ◇
夜。
店を閉めたあと、エリは一人、通りを見ていた。
人の流れ。
街の音。
どこかで誰かが、自分を話題にしているかもしれない。
(条件を出しただけなのに……)
でも、心は不思議と揺れなかった。
(逃げなかった。
自分で決めた)
その事実が、確かに足元を支えていた。
◇ ◇ ◇
暗がりの向こう。
誰かの視線が、静かに麦猫堂を捉えていた。
条件は、盾にもなる。
同時に――
新しい狙い目にもなる。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(通常) +22
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +42
借金残高 21,671 → 21,629リラ
セシルの一口メモ
条件を出した瞬間、
物語は一人のものではなくなります。
それでも、主語だけは手放さないでください。




