第9話 雨の街と、ひとつの傘
朝、窓を打つ音で目が覚めた。
灰色の空。雨脚は思いのほか強く、石畳を洗い流していた。
パン屋の看板を揺らす風が、しとしとと音を立てている。
「今日はお客さん、少ないだろうな……」
傘を差し、店まで歩く。
通りの人影はまばら。
水たまりに映る灯りがゆらゆら揺れていた。
店に着くと、すでにセシルが入口を拭いていた。
黒い外套の肩にも、細かな雨粒が光っている。
「おはようございます、お嬢様。降雨確率一〇〇パーセントの朝です」
「……見ればわかるわよ」
「事実申告です」
いつもと同じ調子に、思わず笑ってしまう。
外の冷たさが、少しやわらいだ気がした。
◇ ◇ ◇
昼になっても、客はまばらだった。
焼き上げたパンの籠が、いつもより重く感じる。
窓の外では、子どもが傘を持たずに走っている。
濡れた髪を気にするでもなく、笑いながら水たまりを跳ねていく。
その無邪気さが、胸に沁みた。
「……ねぇ、セシル」
「はい」
「売れ残ったパン、どうしてるの?」
「通常は翌朝のまかない、または廃棄です」
「もったいないわね。こんな寒い日に、外で濡れてる人がいるのに」
「善意による配布、ですか」
「そう。私、行ってくる」
エプロンを外し、棚の上から金属の缶を取る。
それは、セシルが以前使っていた紅茶用のものだった。
磨かれた銀の表面に、自分の顔がぼんやり映る。
「パンを濡らすわけにはいかないから、これを使うわ」
「……紅茶より扱いが丁寧ですね」
「当たり前でしょ。こっちは食べ物だもの」
セシルが小さくため息をつく。
「傘を忘れています」
「大丈夫、走るから」
「無謀です」
「正義感です」
そう言い切って、私は雨の中へ飛び出した。
◇ ◇ ◇
通りの角で、ベン老人が軒下に座っていた。
焚き火は濡れて消え、手を擦り合わせている。
私は紅茶缶の蓋を開けた。
中には麻布に包んだ“陽だまりパン”が三つ。
蒸気がふわりと立ちのぼり、甘い香りが雨の匂いを押し返した。
「おや、嬢ちゃんか。こんな日に何してる」
「パン、焼きすぎちゃって。食べてもらえませんか?」
紅茶缶ごと差し出すと、老人の顔がぱっと明るくなった。
「そりゃありがたい! ……あったかいな」
「焼きたてです。焦げなし、保証します」
「ははっ、そいつぁ残念だ。焦げてる方が好きなんだがね」
二人で笑った。
雨音が軒を叩き、パンの香りがその下に広がる。
老人の手の震えを見て、私は自分の指先も冷えていることに気づいた。
◇ ◇ ◇
夕方。
店に戻るころには、髪も服もすっかり雨に打たれていた。
扉を開けると、セシルが待っていた。
「お帰りなさい。体温低下レベル七十パーセントです」
「そんな数値で言わないで……くしゃみ出る……」
「やはり。どうぞこちらへ」
差し出されたのは、大きなタオルと、温かいマグ。
中には、ハンナ特製のスパイス入りミルク。
その香りが、胸の奥まで染みていく。
「ありがとう。……パン、全部配ってきたわ」
「知っております。ベン老人からの報告で」
「報告?」
「彼はああ見えて、情報網が広いのです」
「……まったく」
「ですが――立派な行動でした。お嬢様」
セシルは傍に立ち、黙って傘を広げた。
銀の骨が、淡い光を反射する。
「これを」
「傘?」
「はい。王都製の撥水布。軽くて丈夫です。
お嬢様が無謀な行動を取る前に、せめてこれをお使いください」
「……セシル、あなたってほんと過保護ね」
「職務です」
笑いながら受け取る。
手の中に残る傘の重みが、妙にあたたかかった。
「ありがとう。今度はちゃんと持っていく」
「次回予告のような言い方ですね」
「癖よ」
二人で笑う。
雨脚はまだ強い。けれど、心の中は不思議と晴れていた。
◇ ◇ ◇
その夜、私は借家の窓辺で傘を眺めた。
黒い布地の中に、街灯の光が反射している。
――この傘を、誰かのために差せるようになりたい。
そう思いながら、静かに目を閉じた。
外では、まだ雨が優しく降り続いていた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入日給(雨天営業)+15
合計+15
借金残高24,791 → 24,776
セシルの一口メモ:
紅茶缶、第二の人生を得る。
お嬢様の善意、街で小さく拡散中。




