死ぬまであなたを大事にするし、泣かせないし、嫌な思いもさせない
藤乃両親の出会いの話、これにて完結です。
お付き合いいただきありがとうございます!
二年後の冬の夕方。三年生になった俺、由紀、坂木、美園の四人で進路指導室に向かった。
俺と由紀、それに美園は、それぞれ実家の造園屋や農家を継ぐ。でも坂木は進学を選んだ。
坂木が先日センター試験を終えて、点数や志望校の相談をするって言うから、俺たちもついてきた。
「いや、ぞろぞろ着いてこられるの邪魔なんだけど」
坂木が嫌そうな顔をしたから、笑って返した。
「いいじゃん、俺ら就職だし、それも実家だから、することなくてヒマなんだよ」
「じゃあ帰れよ……」
「終わったらゲーセン行こう」
「行かねえ……」
騒ぎながら進路指導室の扉を開けると、私服姿の女性が背中を向けて椅子に座っていた。
「……藤宮先輩……?」
女の人がぱっと振り向く。きれいだった髪はボサボサで、顔も涙で濡れていて、それでも世界で一番綺麗なその人は、間違いなく藤宮桐子だった。
「す、須藤くん……?」
先輩の目から、またぽろぽろと涙が零れる。駆け寄ってポケットを探したけど、やっぱり入っていたのはぐしゃぐしゃのハンカチだけだった。
迷った末に学ランを脱いで、シャツの袖で先輩の顔をそっと拭った。……かえって赤くなってしまった気がする。
「先輩、どうしたんですか、こんなところで、こんなに泣いて……」
いくら拭いても、先輩の涙は止まらなかった。
顔を上げると、先輩の向かいに進路指導の先生と美園先生が並んで、渋い顔をしていた。
「……藤宮が実家の花屋を継ごうとしていたのは、知ってるな?」
「はい、先輩からもそう聞いています」
美園先生の重い声に頷く。進路指導の先生は立ち上がり、坂木に声をかけていた。
「藤宮に妹がいるのは知ってるか?」
「えっと、はい。二つ下で、俺たちと同い年だって」
「妹さんが大学受験に失敗して、ご両親は彼女に花屋を継がせることにしたそうだ」
「……はあ?」
思わず大声が出た。
うつむいたままの先輩の肩が、小さく震えていた。
「……それで、藤宮は就職の相談をしに来てくれてた」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように苦しくなった。
そっと先輩の肩に手を置く。ゆっくりと俺を見上げた先輩の顔は、涙に濡れて悲しみに染まっている。
大きく息を吐いて、静かに吸い込むと、先輩の足元に跪いた。
「須藤? お前何して……」
「藤宮桐子さん、俺と結婚してください」
「須藤!?」
「ちょ、須藤、マジか……ウケる……っ、あはは」
うるさい美園先生と笑い出した由紀を無視して、先輩の、あかぎれができた手をそっと取った。
「桐子さん。俺、二年経っても、やっぱりあなたが好きです。きっと、これからもずっと、死ぬまで好きです。ずっとあなたを大事にします。絶対に泣かせたり、嫌な思いをさせたりしません。だから……俺と一緒に来てくれませんか?」
「へっ……?」
やっと先輩の涙が止まった。ぽかんとした顔で俺を見下ろしている。
その手を包むように握った。
「桐子さんが俺のことを好きじゃなくてもかまいません。生きるために俺を利用してくれてもいい。ただ、俺にあなたを守らせてください」
「須藤くん……」
「須藤? ここでプロポーズはちょっと……」
「進路の話じゃないですか」
「そういう問題じゃないんだよなあ……」
机の向こうで呆れた声を出す美園先生を睨むと、苦笑いされた。
これは間違いなく、俺と先輩の進路の話だ。
「えっと、前にも言ったと思いますけど、俺の実家は造園屋です。敷地の端で母が花屋もやってますが、あまり手が回ってなくて。だから、桐子さんに手伝ってもらえたら、本当に嬉しいんです」
手を取ったまま立ち上がると、ぽかんとしたまま先輩も立ち上がった。
「由紀、今日は帰るわ」
「うん。また明日」
「坂木、美園、ゲーセンはまた今度な」
「いや、行かねえけどさ。俺の受験が終わったら行こう」
「ちょ、須藤?」
進路指導の先生が慌てた顔で立ちはだかった。
「先生、俺の家、須藤ですよ」
「え、うん。そうだけどさ?」
「草花に詳しい人が造園屋で働くことに、何か問題ありますか? “須藤の嫁”って言って、藤宮生花店が口出しできますか?」
「……まあ……そうだけど」
進路指導の先生が美園先生と顔を見合わせた。
「もちろん、ちゃんと親には話します。ていうか、これから帰って相談します。実家を継ぐのは俺で決まってるし、造園屋と花屋を一緒に切り盛りしてくれる嫁がいれば、口うるさい分家を黙らせることもできる」
横でまた由紀が吹き出した。
美園の分家筋にあたる美園先生は、なんとも言えない顔をしていた。
「先輩、来てもらえますか?」
藤宮先輩は、まだ涙の跡が残る顔で、小さく頷いた。
自転車の後ろに先輩を乗せて家に向かう。
お腹に回る小さな手は、あかぎれだらけで、母さんよりひどくて、思わず泣きそうになった。
信号待ちのときに、そっとその手に触れる。
「先輩、俺は先輩が花が好きなの知ってます。草木を丁寧に世話してたのも知ってます」
「……うん」
「だから、俺は同じ仕事をする人間としても、先輩のこと尊敬してます。……なんか、生意気ですよね」
先輩が答える前に信号が変わる。
ペダルを踏み込むと、お腹に回った手に力が入って、背中が温かくなった。
「ただいまー、母さんいるー?」
「おかえり、小春。……その子、藤宮さんとこのお嬢さんじゃないの」
家の前に自転車を止めて、花屋のプレハブに顔を出す。
店内を掃いていた母親は怪訝な顔で箒を置いた。
「この人、俺の嫁にして花屋やってもらおうと思ってるんだけど、いい?」
「順番に話してちょうだい」
「えっとね……」
一通り話すと、母親は眉間にシワを寄せた。
「わかったわ。藤宮桐子さん、バカ息子が突然ごめんなさいね。こっちに座って。小春、お父さん呼んできて。たぶん納屋にいると思うから」
「へいへい」
プレハブを飛び出して親父を探す。
納屋にいた親父に事情を話しながら、一緒に戻った。
「……お前も思い切ったことするなあ。まあ、いいけどさ」
「いいんだ?」
「嫁がいれば分家を黙らせやすいのは確かだ。ただ、嫁が気に入られなきゃ、分家や兄貴……冬一郎の当たりは強くなる。お前じゃなくて、藤宮さんに向けてな」
正直、そこまで考えてなかった。もし兄貴が藤宮先輩に強く当たったら。
姉達はどうだろう。秋絵姉はもう結婚して家を出ているから、いいけど、夏葉姉は? 今はうちの経理や事務を母に教わっている。少し前に見合いしてて、たぶん一年以内には嫁ぐ予定らしいけど。
「兄貴が先輩に何か言ったら、殴ってもいい? 姉さんたちは……」
「ただでさえ冬一郎とお前は揉めてるんだから、手なんか出したら、嫌な思いするのは藤宮さんだぞ。秋絵と夏葉のことは知らんけど、俺は少なくとも、嫁いびりする娘には育てたつもりない」
そんな話をしながら、親父とプレハブに戻るとちょうど夏葉姉が入ろうとしたところだった。中を覗いた夏葉姉が顔をしかめて、俺を見た。
「小春、なに女の子泣かしてんの」
「お、俺が泣かしたわけじゃ……」
「じゃあ慰めることもできない甲斐性なしってことね」
「ぐっ、否定できない……」
「お前たち、うるさいよ」
母さんの鋭い声に、姉と二人でびくっとして口をつぐんだ。
「あなた。こちらが藤宮さんのお嬢さんです」
「おう。小春から話は聞いた。どうすんだ、その子」
「うちの子にします。この子が真面目に働くのは知っています。市場でも見かけましたし、地域の集まりでも、きちんと動いていましたから」
「そうかい。家への連絡は?」
「今から、私が直接伺います。夏葉、店は任せました。小春、ついてきなさい。桐子さんも……先に、手当が必要ね」
あっという間に両親は話をまとめてしまった。……まとめたというか、母が決めて通達したというか……。
母さんがエプロンのポケットからハンドクリームを出してきた。
「俺がやる」
ハンドクリームを受け取って、蓋を開ける。パイプ椅子に座る先輩の前に跪いた。
「先輩。手にハンドクリーム、塗らせてもらっていいですか?」
先輩はまだ顔に涙の跡は残ってるし、目も赤いけど、表情は落ち着いている。
でも、俺と目があうと、また顔がくしゃっと歪んでしまった。
「えっ、あの……嫌でしたか?」
「う、ううん、嫌じゃなくて……あの、お願いします……」
蓋を開けて、先輩の手にそっと塗っていく。冷たくて、カサカサで、小さな手に体温を移すように、ゆっくりゆっくり塗っていく。
「……ねえ、弟がいちゃついてるの、見てなきゃダメ?」
「店のことをしてていいだろ。俺も仕事に戻る」
外野がうるせえ。ひととおり塗りおえてから、ハンドクリームを片付けて先輩の手を引く。
母さんが車を出してくれたので、先輩を先に乗せる。俺も隣に座って先輩の手を握った。
藤宮生花店は隣町にあって、車ならすぐ着く距離だ。
母さんが目配せすると、藤宮先輩が小さく頷いて、先頭に立って店へ入った。
「た……ただいま……」
「まったく、どこをほっつき歩いていたの? まだ仕事はたくさん――……須藤さん!?」
店の奥から出てきた痩せたおばさんは、桐子先輩を見るなり眉を吊り上げたが、母さんの姿に気づいた途端、その勢いがしぼんだ。
母さんはいつもの淡々とした調子で会釈するから、俺も後ろで真似をする。
「こんにちは、藤宮さん。今朝お会いして以来ですね。突然お邪魔して申し訳ありません」
「いえ、いえ……。あの、どういったご用件で……?」
「率直に申し上げますが、桐子さんを、我が家でお預かりしたいと考えております」
「桐子を……?」
直球を投げ込む母さんにおばさんは目を丸くして、先輩を見る。先輩は肩をビクッと震わせた。
「桐子、どういうことなの?」
「……ゆ、百合に実家を継がせるから、私はもういらないって、出て行けって母さんに言われて……。それで、高校の進路相談室で就職の相談をしていたら、後輩の須藤くんが“うちで働かないか”って声をかけてくれたんです……」
先輩の目が俺を見る。
頷いて、母の後ろから顔を出した。
「はじめまして。須藤小春です。桐子さんが熱心に花の手入れをしてるのを知っていたので、母の手伝いをお願いしたくて、声をかけさせてもらいました。桐子さんが花をとても大事にしてるから、草花に携わる仕事から離れてほしくなかったんです」
「でも……そんな、不出来な娘、須藤さんには釣り合いませんわ」
「……っっ!」
声を上げるより早く、母さんのかかとが俺のつま先に乗った。いってえ!! 涙が出そうなほどの痛みで、肩まで震えた。
……まあ、踏まれなかったら怒鳴ってたから、母さんの対応は正解なんだけど。息子のこと理解しすぎだろ……。
「とんでもありません。桐子さんがよく働く方であることは、市場や地域の集まりでも存じ上げております。それに、妹さんを跡継ぎにされるご予定とのこと。でしたら、小春とも親しくしておりますし、桐子さんを須藤家の嫁として、ぜひお迎えしたく思います」
母さんがきっぱり言って、おばさんは口をぱくぱくさせている。
先輩はうつむいたままで、どんな表情をしているのか見えなかった。
「……桐子、あなたはどうしたいの。いきなり家を捨てるつもり?」
先に先輩を捨てたのはそっちだろうが! そう言いたかったけど、今度はちゃんと自力で我慢した。
先輩の小さな手は固く握りしめられていて、細い指の骨が白く浮かび上がっていた。見てられなくて、俺はつい、その手に触れた。先輩の顔がぱっと上がる。順番に俺を見て、母さんを見て、おばさんを見る。最後にもう一度俺を見たから、触れた手を今度は包むように握った。
「先輩。俺は、先輩が決めたことなら、どんな選択でも受け入れます。これは先輩自身の進路です。決めるのは、先輩ですから。……俺は、あなたが笑顔でいてくれるなら、それだけで嬉しいんです。だから、なんだって応援します」
「……須藤くん、ありがとう」
先輩の手から力が抜ける。離そうとすると、今度はそっと握り返された。
「お母さん。私、須藤さんにお世話になります」
「なっ……」
「家のことは百合に任せるのでしょう? 私はいらないんだよね? ……今まで、お世話になりました」
俺の手を握ったまま、先輩は頭を下げた。
おばさんは震える唇で何かを言おうとしたが、母さんを見た瞬間に、言葉を飲み込んだ。母さんが、どんな顔をしているのか俺には見えない。
「桐子さんはこちらでお預かりいたしますので、ご心配なく。お荷物は後日、主人と小春が伺って運びます。ただ、今必要なものだけ持ち帰りますので、ご用意いただけますか。……小春、手伝いなさい」
「は、はい。先輩、えっと、行きましょうか……?」
有無を言わせない母さんに頷いて、先輩と一緒に家に向かう。
「こっち……どうぞ」
先輩は俺の手を握ったまま玄関を上がる。……女の子の家に上がるの初めてだ。
「お、お邪魔しまーす……」
階段を上がって、手前の部屋の扉を先輩が開ける。あ、これ先輩の部屋か。……入らない方が……いいのかな?
でも手は握られたままで、そのまま部屋に入ってしまう。
「……いい匂いがする」
「えっ」
「あっ……すみません、つい本音が出ちゃって……!」
「ふふっ、いいよ。少し待っててね」
先輩の手が離れていった。ど真ん中にいても邪魔だから、そっと後ずさって、扉の前に立つ。あんまりじろじろみるのも……でも、つい見てしまう。そんなに物は多くなくて、すっきり片付いた部屋だ。
たった十分ほどで、先輩は旅行カバンに荷物を詰め終えた。入れていたのは、着替えと数冊の本だけ。
「……持ちます」
「自分で持てるよ」
「持たせてください。そのためについてきたんですし、手ぶらだと母に叱られますから」
「じゃあ、お願い。ありがとう、須藤くん」
先輩の顔がやっと少しだけ笑ってくれた。
手を伸ばしかけて止めたら、先輩の手がそれを掴んで、歩き出す。俺はなんだか飼い主のあとをついていく犬みたいで。……でも、先輩の番犬になれるなら、それはそれで悪くないかもって思ってしまうあたり、自分でもちょっと末期かもしれない。
花屋に戻ると、母さんが相変わらずの無表情で花を見ていた。
何を考えてるのか全然わからなくて、怖い。
「……戻りました」
「早かったわね。……それだけ? 桐子さん、小春が全部持ちますから、必要なものは何でも持ってきて構いませんよ」
先輩は小さく首を横に振った。
「いえ、そもそも私あんまりものを持ってないんです」
「先輩、卒業アルバムは?」
ふと気づいて聞くと、おばさんの肩が跳ねた。
先輩は気まずそうに苦笑している。
「……ないの。気にしないで」
「小春」
「……うん。じゃあ先輩、これからたくさん写真撮りましょう。ひと月でアルバムが埋まるくらい、先輩の写真をいっぱい撮りますから。運動会とか文化祭のときの先輩の写真も、焼き増しします」
「ありがとう、須藤くん」
母さんから車の鍵を受け取って荷物を置きに行く。
花屋に向かう前に、母さんと先輩が車に戻ってきた。
「帰るわよ」
「うん。あ、先輩、どうぞ」
先輩を乗せて、俺も乗る。
車が、いつもより勢いよく走り出した。
「冬一郎の部屋が空いてるから、桐子さんにはそこを使ってもらいましょう。小春、帰ったらまず掃除して。それと、お風呂も先に沸かしておいてね」
「わかった」
「服は持っているのよね? 足りない分は秋絵が置いていったのを使えばいいわ。下着はある? それは足りなければ休みの日に買いに行きましょう。あとは……」
母さんは淡々と俺と先輩に指示を出す。
家に帰って、母さんは花屋に、俺と先輩は家に向かった。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
おずおずと足を踏み入れる先輩に、俺はできるだけ優しく声をかけた。
「今日から先輩の家になるから、ただいまって言ってくれると嬉しいです」
「……ただいま」
「おかえりなさい、先輩。こっちです」
納戸から掃除機を出して担ぐ。階段を上がって、一番奥の部屋の扉を開けると、思ったよりもきれいだった。……兄貴が家を出たあとも、たまに掃除してるんだろう。先輩に入り口で待っててもらって掃除機をかける。
……先輩に、兄貴の使ってたベッドをそのまま使わせるの、ちょっと嫌だな。
隣の部屋の秋絵姉のベッドマットと交換する。
「お待たせしました。ちょっとほこりっぽいけど、先輩の部屋です」
「……わざわざ個室まで用意してもらって……申し訳ないです」
「うちの子になるなら、当たり前です。須藤家にはそれくらいの甲斐性あるから、気にしないでください」
わざとらしく明るく言うと、先輩は、やっと安心したように微笑んでくれた。
「あ、風呂湧かすように言われてたの忘れてた。先輩、ちょっと待っててくださいね」
でも風呂場に行ったら親父がもう入っていた。
「あ、風呂入る? そろそろ出るよ」
「うん。先輩、疲れてるだろうから先に入ってもらうよ」
「それはいいけどよお。お前、いつまで先輩って呼ぶんだ?」
「……時期を見て、検討させてもらいます……」
親父は湯船でゲラゲラ笑った。
うるせえな。いいタイミングがないんだよ……!
笑い転げる親父を無視して二階に戻った。
兄貴の部屋……先輩の部屋の戸を叩くと、おそるおそる……という様子の先輩が顔を出す。
「風呂、今親父が入ってるんで、もうちょっと待ってください。空いたら声かけます」
「ありがとう。でも、私は最後でいいよ?」
「よくありません。最後は俺です。家庭内ヒエラルキー最下位が俺なんで。うちは母さん、姉さん、親父、俺の順です。先輩は姉さんと同率になります」
「そんな上の方に……」
「須藤家は”妻”が最上位です。だから母さんが一番上。先輩は申し訳ないですけど、俺の嫁って名目で入ってもらうので俺的には母さんと同じ順位だと思いますが、姉には逆らえないの、ちょっと確認してもらって……」
そんなかっこ悪いことを言うと、先輩は目を丸くして、それからふっと口元を緩めて、小さく笑った。
……よかった。やっと笑ってくれた。
「須藤くん、お姉さんに弱いんだ」
「姉さんたち、怖いんですよ。……先輩、うち全員須藤なんで、名前で呼んでもらえませんか?」
「……小春くん」
「……ありがとうございます。嬉しいです」
「じゃあ、小春くんも……」
「おーい、小春ー、桐子さんー、風呂空いたぞー!」
タイミングの悪い親父だ。でも、先輩には早く休んで欲しい。
「先輩……桐子さん。風呂、案内しますね」
「うん、ありがとう」
階段を降りて風呂を案内する。パジャマは秋絵姉のものを出しておく。
……まあ、あれだな。
いろいろすっ飛ばして先輩はうちの人になっちゃったけど、同じ家に住んで、一緒に仕事してりゃ、そのうちいい感じになれるだろ。たぶん。
風呂のすりガラスは見ないようにして、静かに脱衣所を出た。
出たところで夏葉姉が通りかかって、ニヤッと笑った。
「がんばんなよ。母さんにおいしいところ全部持って行かれてるからね」
「……うるせえなあ。俺だって、やるときは……やる……やりたいし……」
「ダメじゃん」
「ぐう……」
いや、なんとかなる!
……結局なんとかなったのは半年以上あとで、それも先輩に背中を押されて、やっとのことだった。最後まで、俺はかっこ悪いままだった。
***
私、藤宮桐子が須藤家に引き取られて、もう半年が経つ。
毎朝三時に起きて、お義母さんと花市場に向かう。買い付けは以前からやっていたので慣れていて、お義母さんも「小春より見る目があるわね」と褒めてくれる。
帰ると、お義父さんと夏葉義姉さん、小春くんが朝食を用意してくれていて、五人で一緒に食べる。食べながらそれぞれの一日の予定を共有して、お義父さんと小春くんは造園業の仕事に向かう。
私は夏葉義姉さんからお店の経理や事務を引き継ぎながら、花屋の開店準備を進める。家のことをやるときもあるし、庭木の手入れや、お義母さんが家の裏でやっている小さな畑の手入れを手伝うこともある。
嫁いで家を出たという秋江義姉さんともお会いした。
お義母さんと同じく、サバサバして落ち着いた雰囲気の人で、話し方は淡々としているけれど、笑顔がかわいらしい人だった。
「話は聞きました。小春がごめんなさいね」
「いえ、とんでもありません。小春くんが手を引っ張ってくれたから、私はこうしていられるんです。感謝しかありません」
……須藤さんのご家族には、本当に大切にしていただいている。こんな温かいお家だから、小春くんはこんないい人なんだなって、引き取られてすぐわかった。
でも……あの日、進路指導室でプロポーズされて以来、小春くんは私にそういったことを一切口にしない。
毎日のように「かわいい」「きれいです」「家に桐子さんがいるのって最高ですね」なんて言われるけど、それは高校の頃と変わらない。かといって、自分から「あのプロポーズ、どうなったんだっけ?」なんて聞いていいのかも分からない。
でも、それ以外のことは全部守ってくれている。
何かと私の写真を撮ってくれるし、手のあかぎれも毎日手入れしてくれる。食事の支度や家事も、いつも一緒にやってくれる。ごはんのときも、しょっちゅう足りているか聞いてくれて、あまりに聞くのでお義母さんに叱られることもあるくらい。
だから余計に、プロポーズについては聞けなかった。
悩んだ末に、花屋の閉店作業中、夏葉義姉さんに相談した。
「えっ、小春、進路指導室でプロポーズしたの……あはは、ウケる」
「でも、それ以降、そういう話が出なくて……小春くんが忙しいのは分かってますし、自分から急かすのも気が引けて」
「別に気にしなくていいんじゃない? 小春が桐子ちゃんのこと好きで仕方ないのは見てればわかるしさ。えっと、ちょっと待ってね」
夏葉義姉さんは店のカレンダーを見つめた。
「あ、ここ。来週のこの日ね、小春が休みだから、桐子ちゃんも休みにしたらいいよ。なんだかんだ、丸一日ゆっくりできる日って、なかなかないもんね」
「でも……」
「この日、もともと父さんが町内会の用事でいないし、造園屋も休みだから、店は私と母さんでなんとかなるし。気になるなら、朝だけ予約の花束を作っておいてくれたら助かるよ。桐子ちゃんの作る花束は人気だからね。小さいのもいくつか作って、店頭に並べたいな」
「……はい! わかりました。ありがとうございます」
片付けを終えて、二人で家に戻り、お義母さんに相談した。快く了承してもらえたので、あとは私の心の準備だけ。
休みをもらった日の昼ごはんのあと、私は小春くんの部屋の戸を叩いた。
「どうぞー……、あ、桐子さん。どうかしましたか?」
小春くんが笑顔で立ち上がる。小春くんが向かっていた勉強机の上には、庭園の写真集や植物図鑑が広げられていた。
静かに部屋に入って、音を立てないようにそっと戸を閉めた。
勧められた座布団に正座する。
「あの……小春くん」
低い机を挟んだ向かいに、小春くんが座る。
穏やかで優しい、飴を煮溶かしたような、とろけるような甘い顔で私を見つめていた。高校生の時ときから変わらない熱っぽい眼差し。私は、もうそろそろ、そのまなざしを受け入れたいと思っていた。
「半年前に、進路指導室で私に言ったこと、覚えてる?」
小春くんの笑顔が引きつった。あっという間に真っ赤になって、視線が斜め上の方を泳いでいる。
「お……覚えてます……。全部……」
「……返事、してもいい?」
「えっ、あっ……心の準備、させてもらってもいいですか?」
小春くんが目を逸らしてうつむいたので、私はそっと座布団から立ち上がった。
机を回って、小春くんの真横に座る。下から覗き込むと、真っ赤な顔を逸らされる。
「小春くん」
「……あの、待って」
「待たない。私、高校の時も含めて三年我慢して、その後からまた半年待ってるんだよ」
私の視線から逃げようとした小春くんがバランスを崩して床に倒れ込む。
この瞬間だけは絶対に逃したくなくて、床に手をついて小春くんの顔を覗き込んだ。
「ちょ、桐子さん……!?」
「須藤小春くん。よろしくお願いします」
「えっ……?」
「だから、返事。結婚してくださいって言ったよね?」
「……言いました」
「小春くんと結婚します。不束者ですが、よろしくお願いします。……ほら、泣かないで」
体を起こして、ベッドの上にあったティッシュを取ってくる。
涙でくしゃくしゃの顔を拭いたら、手を握られた。小春くんはゆっくり起き上がる。
「……桐子さん。抱きしめてもいいですか?」
「いいよ。でも、もう離さないでね」
「はい。死ぬまで離しません」
小春くんの腕に飛び込むと、その大きな体に包まれて、心の奥から安心感に満たされた。
幸せすぎて、私も涙が止まらなかった。あの進路指導室で流した涙とは違う、温かい涙だった。
そのさらに半年後、夏葉義姉さんが結婚して家を出ていった。
結婚式で、小春くんの兄・冬一郎さんに初めてお会いしたけれど、思わず笑ってしまうほど嫌みを言われた。お義母さんから事前に事情を聞いていた私は気にしなかったのに、小春くんがひどく怒って、危うく親族控え室で乱闘騒ぎになるところだった。披露宴が終わると、冬一郎さん夫妻と娘の鈴美さんは足早に帰ってしまって、家に戻ってから小春くんはまた私を抱きしめて泣いていた。
その一年後に私たちも結婚して、冬一郎義兄さんと小春さんは顔を合わせようともしなかった。代わりに奥さんがこっそり話しかけてくれて、やがて義姉さんたちと四人でお茶をする仲になった。
数年後には息子の藤乃も生まれて、いろいろあったけれど、私たちは幸せに過ごしてこられたと思う。
「ただいま、桐子さん」
「おかえりなさい、小春さん」
進路指導室でのプロポーズから三十四年。水道管の破裂をきっかけに家を建て替えて、私たちは今、初めて二人きりの暮らしをしている。
息子の藤乃も結婚して、花音ちゃんと仲良く二人暮らし。お義父さんとお義母さんも、高齢者向けの設備が整ったマンションに引っ越した。
お義母さんから継いだ花屋は、藤乃と花音ちゃんが手伝ってくれていて、ますます繁盛している。造園の仕事も、小春さんと義父、藤乃が頑張って、地域に根ざした仕事ができていると思う。
「家に桐子さんがいるって最高だなあ」
「三十年以上前からいるじゃない」
「うん。だから俺は毎日幸せです」
小春さんは相変わらず、毎日飽きずに私を甘やかしてくれている。
甘やかされすぎてダメにならないよう気をつけるのが、むしろ大変なくらい。
「ねえ、小春くん」
「んんっ!? どしたの桐子さん……いきなり……」
「初々しい藤乃と花音ちゃんを見ていたら、私も久しぶりにそう呼びたくなっちゃったの。ね、小春くん。ありがとう。三十年前、私の手を引いてくれて」
そう言うと、あのときから変わらない甘ったるい顔で、小春くんは私を抱きしめた。
「うん。言っただろう? 死ぬまであなたを大事にするし、泣かせないし、嫌な思いもさせない。これからも、ずっと約束は守るよ」
彼の腕の中は三十年前と変わらず、安心できる場所のまま。私は腕を伸ばして、小春くんの背中に手を触れた。