運命の人は桜吹雪の中に
藤乃の父、小春が未来の妻、桐子に出会う話。
藤乃の父親だなあ……!って感じの男です。
俺、須藤小春が運命の人を見つけたのは、高校の中庭だった。
入学式の翌々日で、部活説明会の翌朝。園芸同好会の活動場所が中庭だと聞いて、朝いちばんに向かった。
桜が舞う中庭で、色とりどりのチューリップやビオラに水をあげている小柄な人影が見えた。
説明会のときに園芸同好会の説明をしていた三年生の……たしか、藤宮先輩。
風にふわりと広がるセーラー服に、さらさらと揺れる黒髪。息を呑むほど綺麗な光景のなかで、俺の足音に振り向いたその人が、いちばん綺麗だった。
「……一年生?」
「っ、あ、はいっ!一年生の須藤小春です。……あの、園芸同好会の見学に来ました」
「ああ、そういうこと。ようこそ、園芸同好会へ。……といっても、会員は私だけなんだけど。三年生の藤宮です」
大きなジョウロを両手で抱えて、先輩はにっこり微笑んだ。
「けっ……えっと、すみません。その……入部って、どうすればいいですか?」
勢いで「結婚してください!」って言いそうになって、あわててごまかした。
先輩は嬉しそうな顔で、頷いた。
「入部届を顧問の先生に出してもらえれば大丈夫。生物の美園先生って知ってる?」
「あ、はい。知ってます。出しておきます。……あの、放課後も藤宮先輩はここにいますか?」
尋ねると、先輩は首をこてんとかしげた。その拍子にジョウロが傾いて、水がばしゃっとこぼれる。駆け寄ってジョウロを支えると、先輩は思ったより小柄で、華奢で、手を添えていないと折れてしまいそうだった。
「あわ……ありがとう。えっと、日によるかな。でも、君が来るなら……今日は放課後、ここで待ってるよ」
「わかりました。あの、先輩の下の名前、教えてください」
「とうこ。桐箪笥の桐に、子供の子で、桐子」
「綺麗な名前ですね。先輩にすごく似合ってます」
「えっ……?」
「藤宮先輩。俺、こんなに綺麗な人、初めて見ました。放課後、また会えるの楽しみにしてます。……じゃあ、手、離しますね」
「え、ちょ……、う、うん……?」
そっとジョウロから手を離して、中庭を後にする。
吸いこんだ空気が、さっきまでよりずっと澄んでいて、美味しく感じた。
教室に戻ると、幼馴染の由紀が登校していた。
由紀一葉。実家同士が昔から付き合いのある、いわば腐れ縁だ。でも、同じ学校に通うのはこれが初めてだから、学ラン姿の由紀にはちょっと違和感がある。
「由紀、おはよ」
「はよ。須藤、どっか行ってた?」
「うん、園芸同好会見てきた」
「ふうん。学校でまで草花のこととか、お前物好きだな」
由紀はあきれたような顔をした。
俺の実家は須藤造園。親父は庭師で、母さんはそれを手伝いながら、庭の隅で花を売っている。
由紀の実家は由紀農園。花農家だ。
だから、どちらも家に帰ると草花の世話をやらされていて、由紀がウンザリしているのもわからんではない。
「由紀はどっか部活入る?」
「どうしよっかな。めんどくさいし、やりたいこともないし。どうせ帰ったら畑の手伝いだしさ。須藤、園芸同好会入るの?」
「うん。運命の人がいたから」
「はあ?」
キョトンとした由紀に、さっきの出会いを話す。由紀は興味なさげに「ふうん」と頷いた。
「そんなに美人なんだ。俺も見に行こうかな」
「来てもいいけど、俺は本気であの人を口説くつもり。何がなんでも嫁に来てもらう」
「……気が早えだろ」
ずっと握っていた入部届を、机の上に広げた。
名前と部活名を書いて、立ち上がったところで担任が入ってくる。……昼休みに出しに行くことにした。
昼休み、由紀と一緒に生物準備室に行くと二人の生徒と、奥の机で先生が昼を食べていた。
「ちわー、美園おじさん、これお願いしまーす!」
「学校では美園先生って呼びなさい。それに、まだギリギリ二十代なんだから、おにいさんって呼んでくれ」
手前に座っていた二人のうちの一人……美園基が吹き出す。
「俺らからしたら二十九も三十も変わんないよ、叔父さん」
美園先生は基の叔父さんで、顔見知り。基と、その向かいで弁当を食べていた坂木公平と由紀、俺の四人は親の付き合いもあって、物心ついたときには一緒にいた。とはいえ、全員学区が違ったから、同じ学校に通うのは高校からだ。
「美園せんせー、これ、ハンコお願いします」
握りすぎてクシャクシャになった入部届を差し出すと、美園先生は「はいはい」と言って箸を置き、手を伸ばした。
「物好きだね、須藤。今、藤宮ひとりでやってるし、夏には廃部にして顧問やめようと思ってたのに」
「なんかさ、こいつ、藤宮先輩に一目惚れしたっぽくて。朝から嫁にするって騒いでたましたよ」
弁当箱を開けながら由紀が言う。
美園先生は入部届をノートの山の一番上に置いて、箸を持ち直しながら眉を潜めた。
「へえ。でも藤宮、実家の花屋を継ぐって言ってたから、須藤の嫁には難しいかもね。まあ、須藤んちなら藤宮生花店を吸収できそうだけど」
頭をガツンと殴られたような衝撃だった。
運命だと思ったんだ。桜吹雪の中で、柔らかく微笑む先輩は本当にきれいで、実は春の妖精なんて言われても、俺は信じたと思う。
「ちょ、お前、泣くなって!」
呆れた顔の坂木が、置いてあったティッシュを箱ごと差し出す。 一枚もらって顔に当てたら、あっという間にベチャベチャになった。
「泣いてない……でも、ちょっとショック。帰る」
「午後、授業あるんだけど!」
「つーかお前、その藤宮先輩と放課後約束してるんだろうが」
「……そうだった。放課後までには泣き止むよ」
「午後の授業ずっと泣く気かよ……干からびるぞ」
「いいから飯食え」
「小春、でかいくせにほんと泣き虫だよな」
薄情な三人にやいやい言われながら、空いていた椅子に座って弁当を食べる。しょっぱくて、味がよくわからなかった。
放課後、中庭に向かうと、まだ誰の姿もなかった。
どうやら、三年生の授業はまだ終わっていないようだ。
せっかくなので、ゆっくりと中庭を見て回ることにした。校舎はコの字型に建っていて、その内側に広がる中庭は、体育館ほどの広さがあった。
手前には桜の木が植えられていて、その下にはベンチがいくつも並んでいる。その奥にはいくつもの花壇が整えられていて、今はチューリップやビオラ、ノースポールが風に揺れていた。
歩いていくとキンセンカにマーガレットも咲いているし、ナデシコももう少しで見頃だろう。
……どれもきちんと手入れされていて、藤宮先輩が大事に育てているのがよくわかる花壇だった。
「無理……好きすぎる……」
思わず呟く。
俺が須藤家の跡取りじゃなかったら、先輩が来た瞬間にでもプロポーズしてただろうな。
でも、そうじゃなかったら、きっと俺はこの中庭の良さも、先輩のことにも気づけなかった。
……まあ、あれだ。長男のくせに家業を俺に押し付けた兄貴が悪い。そういうことにしておく。
「お待たせ!」
透き通った声がして、振り向いた。カバンを抱えた先輩が駆け寄ってくる。
「……入部届、ちゃんと出してきました」
「ほんとに出してきたんだ。あ、名前聞いてなかったね。教えてくれる?」
「はい、須藤です。須藤小春」
「須藤小春くんか。見た目に似合わず、かわいらしい名前だね」
「よく言われます。女っぽいですよね」
「そうかも。でも……見かけの印象だけだけど、穏やかで優しそうだから、似合ってるのかもね、小春くん」
先輩がくすっと微笑んだ。切れ長の瞳がやわらかく細められる。その表情が、たまらなくかわいい。やっぱりこの人は、春の妖精かもしれない。
「ところで、須藤くん身長いくつ?」
突然、先輩が手を伸ばしてきた。ぐっと距離が縮まる。抱き寄せたい衝動を必死に堪えて、肩に掛けていたカバンをぎゅっと抱えた。
「中学の最後に測ったときは176センチでした。明日、身体測定があるので、また変わってるかもしれません」
「わあ、大きいね。私よりも20センチも背が高いんだ」
先輩が手を伸ばして、背伸びをする。途端にふらついたから、咄嗟に抱きとめてしまう。
「ご、ごめん、ありがと……」
「いえ、すみません、触っちゃって」
腕の中で、先輩が困った顔で笑っている。かわいい。かわいすぎて、心臓が痛い。
「藤宮先輩って、すごく……かわいいですね。本当に、人間なんですか……?」
「え、なに?どういうこと……?」
キョトンとした顔もかわいい。切れ長の瞳が丸くなって、口がポカンと開いている。キスしたい。でもきっと、したら止まれなくなる。
「今朝、振り向いた先輩があまりに綺麗で……妖精か何かなんじゃないかって、本気で思いました」
先輩がブワッと赤くなる。これ以上かわいくなるの止めてほしい。
「なに言ってるの……。あ、ほら、案内!案内するから……、ね!」
「……はい、すみません、つい長くなっちゃって。あまりにもかわいくて……手が、離せなかったんです」
泣く泣く手を離すと、顔を赤らめた先輩は、そっと距離を取った。――離したくなかった。いや、離さなければよかった。
「きみ、誰にでもそんなこと言ってるの?」
カバンをベンチに置いて、先輩が苦笑している。俺のカバンも隣に置いてから、先輩の顔を覗きこんだ。
「まさか、そんなわけないじゃないですか。こんなふうに、女の人のことを“かわいい”とか“綺麗だ”なんて思ったの、初めてです。――藤宮先輩は、俺の人生で一番綺麗な人です」
「……よく、そんな恥ずかしげもなく……」
唇を尖らせた先輩は「とにかく!」と声を上げた。
「入部届、ちゃんと出したんだよね? よし、それじゃあ……学校の花壇を案内するね」
「はい、よろしくお願いします」
ニコニコと歩き出す先輩についていく俺の顔は、多分由紀たちが見たら引くくらい、溶けていたと思う。
先輩の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩く。校門から学校をぐるりと半周して裏門へ向かうと、チューリップがずらりと並んでいた。さらにそこからもう半周すると、今度はシバザクラが一面に広がっている。
「これ、全部先輩が植えたんですか?」
「うん。チューリップは秋に。シバザクラも秋から冬にかけて順番にね」
「すごく綺麗ですし、手入れも行き届いてます。先輩の人柄がよく表れていて……かわいくて、綺麗です」
「……ありがと……」
校門に戻ると、昇降口へ向かう通り沿いのプランターや、校舎沿いに並ぶ花壇を眺めながら、再び中庭へと足を向けた。
中庭の花をじっくりと見せてもらったあと、ベンチに並んで腰を下ろした。
「世話してる花壇はこんな感じ。毎朝水やりして、放課後は時期によるけど、植え替えや草むしりとか……まあ、普通の手入れだよ」
「ところで」と先輩は俺を見上げた。
「須藤くんは、なんで園芸同好会に来たの?」
「うち、造園屋なんです。それで、草花にも興味があって、見に来ました。藤宮先輩って実家花屋さんなんですよね?」
「な、なんでそれを?」
「美園先生に聞きました。あ、美園先生って、俺の友達の叔父さんなんです。前からの知り合いで、ちょっと話す機会があって」
「そうなんだ……。うん、うちね花屋やってるの。そんなに大きいお店じゃないけど、いつも花がいっぱいあって、いい匂いがして、すごく好きな場所だから、高校出たら手伝いながら継ぎたいなって」
夕日に照らされた先輩の瞳が、きらきらと輝いている。春風に揺れる髪からはふんわりと花のような香りがして――やっぱりこの人は、人間じゃなくて妖精とか天使とか、そんな、現実離れしたきれいな生き物にしか見えなかった。
……そう思い込まないと、つい手を伸ばしてしまいそうで。だから、そういうことにしておいた。
その日から、俺は毎朝先輩と花壇の水やりをした。放課後はだいたい中庭で待ち合わせて、花壇の手入れ。
水やりをするときの先輩の後ろ姿はやっぱり綺麗で、キラキラして見えて、いつも眩しい。
ときどき美園先生も来て、次に植える苗や球根について、みんなで相談したりもする。
部活中以外にも、ごく稀に先輩と会えることがある。
「あ、藤宮先輩!」
「須藤くん。今から体育?」
初夏のその日、昇降口で先輩と会った。
先輩は体操着姿で、髪を高い位置で結んでいる。汗でしっとりとした前髪が、頬にぴたりと張り付いている。
「はい。週末の体育祭の練習です。先輩もですか?」
先輩の目元にかかった髪を、思わずそっと指先で払った。すると、先輩は真っ赤になって固まってしまった。
「先輩?」
「す、須藤くん!? 人前でそういうことしないでくれる!?」
「……じゃあ、次から二人きりのときにだけ、します」
「嬉しそうにしないでよ! もー!」
先輩は走って行ってしまった。しまった、体操着姿かわいいって言うの忘れた……!
「須藤? お前、いつもそんな感じ?」
隣にいた由紀が半笑いで言う。
「まさか。部活中はもうちょっとちゃんと褒めるし、かわいいって必ず言う。今日は心の準備ができてなくて、体操着を褒めそびれた。追いかけてきていい?」
「授業に間に合わなくなるだろうが。行くぞ」
由紀に引き摺られて校庭に向かう。
体育祭でも先輩の写真を取ったり、競技の合間に話したりする。
「先輩の体操着姿すごくかわいいですね。髪型もいつもと違って、これも素敵です」
「……うん、ありがと」
真っ赤になって目を逸らす先輩が、やっぱりかわいくて。つい一人でニコニコしてしまった。
学校じゃなければ、抱きしめたくなるくらいだ。
「先輩は午後の応援合戦、どの辺りにいますか?」
「えっとねー……」
昼休みが終わると三年生の応援合戦がある。先輩もチアの衣装で出るから、カメラを持って向かおうとしたら、クラスの女子に引き止められた。
「ねえ、須藤くん、ちょっと抜け出さない?」
「抜け出さない。今、急いでるから」
走って先輩の方に行くと、由紀が着いてきた。
「かわいそうじゃない?」
「かわいそうじゃない。俺は忙しいし、先輩以外の女子と、そういうのは無理」
「あ、わかってたんだ。告白したかったらしいけど」
「そんなの、されたくない。あ、先輩!」
チア姿の先輩が出てきたので、写真を撮らせてもらった。ツーショットも由紀に頼んで撮ってもらったから、今日の目的は達成。
「最高。かわいい……好き……」
「告ればいいのに」
呆れ顔の由紀を睨む。
「それは無理だ。俺、先輩の夢の邪魔だけはしたくない」
「難儀なことで」
由紀は鼻で笑って、水筒を傾けた。
体育祭が終わると、夏が近づいて暑くなる。
アジサイの時期が終わると、朝顔が茂り始める。ヒマワリの背丈もずいぶん伸びてきた。
朝と夕方の二回、水やりをしたり、草むしりや害虫駆除をしたり。春の花を片付けて、秋に向けて種を撒いたりもする。
「須藤くん、夏休みって予定ある?」
夏前の夕方、部活を終えてカバンを持ったとき、先輩に声をかけられた。
「先輩のためなら全日空けます」
「そうじゃなくて、水やりしにこないといけないから」
「ああ、そういうことなら大丈夫です。先輩、来られない日ってありますか?」
「私はお盆前は忙しくて来れないと思う。花屋はかき入れ時だから」
「わかりました。じゃあ、そこは俺が水やりしておきますね」
「ありがとう」
夕陽に照らされた先輩は眩しくて、一番星よりも輝いて見えた。
秋には花の植え替えをしたり、ざくろを取って食べたり、落ち葉を集めて芋を焼いたりもした(美園先生に頼み込んで見守ってもらった)。
文化祭は二日間あって、初日の夕方に数時間だけ先輩と一緒にまわった。
「先輩、今日もかわいいですね。行きたいところってありますか?」
「……うん。えっとね、ステージを観に行きたいな。その前に飲み物がほしいから、こっちの……」
「藤宮、そいつ彼氏?」
そう声をかけてきたのは、三年生の男の人。先輩は「あー……」と困った顔で、俺とその人を見比べた。
「部活の後輩です。先輩、この人と知り合いなんですか?」
「う、うん。同じクラスの人だよ」
「へえ。クラスメイトの誘いより、後輩くんを優先しちゃうんだ」
いやみな言い方にカチンときて、わざと大きめの声で先輩を覗きこんだ。
「先輩、この人からも誘われてたんですか?」
「……うん」
「でも、俺を優先してくれたんですね? 嬉しいです。ありがとうございます、桐子さん」
「ちょっ、須藤くん!」
「いつもみたいに、小春くんって呼んでくださいよ」
そう言って、クラスメイトと先輩の間に立つように屈んで、先輩の耳元に口を寄せたら、顔を真っ赤にしていて、かわいかった。
クラスメイトの人は舌打ちして行ってしまった。
「すみません、先輩。つい、やりすぎちゃいました」
「なにが“つい”なの、もう……。まあ、いいけど。ほら、行こ。時間なくなっちゃうよ。……小春くん」
「……! はい! 行きましょう、桐子さん」
その日の公開時間ぎりぎりまで先輩とまわって、終わったあとには一緒に花壇の手入れをした。遅くなったから、自転車で先輩の家の近くまで送っていった。
冬になると三年生は授業がなくなるけど、先輩は朝だけ来て、一緒に水やりをしてくれる。
会える日がどんどん減っていって、俺から先輩に言えることなんて何もなくて。毎朝、手を振って別れるたびにちょっと泣いては、由紀にからかわれた。
今日も校門から昇降口に向かう途中、追いついてきた由紀に、つい泣き言をこぼしてしまう。
「無理……つらい……」
「バカだな須藤は。そうなるのわかってるんだから、入れ込まなきゃいいのに」
「それも無理。一日一回会わないと心が空っぽになる」
「気持ち悪いな、ほんと。先輩が卒業したら、どうするんだ?」
……ほんと、どうしよう。
でも俺は先輩に好きだとは言えない。
この一年、先輩の顔を見るたびに
「今日もかわいい先輩に会えてうれしいです」
「先輩は今日もきれいですね」
「俺は先輩の笑顔を見に学校に来てますよ」
なんて、犬がじゃれつくみたいに、ひたすら先輩に言い続けた。
でも、肝心なことは言えない。
だって、俺は実家を継がなきゃいけないから。先輩には先輩の夢があって、俺が告白することで、それを邪魔したくなかった。
「……どうもしないよ」
覗き込んでくる由紀に首を振って、靴を履き替える。
「先輩に、俺と夢を天秤にかけさせるようなこと、したくない。まあ……仕方ない。俺が一人でめそめそして済むなら、それでいいよ」
「割り切って一年だけ付き合うとかしときゃよかったのに」
「やだよ。ていうか無理。俺、粘着質だから、一度手に入れたら手放せない」
「不器用だねえ」
「下手くそなだけだよ」
卒業式のあと、中庭に向かうと、予想通り先輩がいた。
桜はまだ咲いていなくて、チューリップもつぼみのままだ。
そんな閉ざされた中庭に立つ先輩は、そこにあるどんな花よりもきれいで、手に入らないのなら、桜の下に埋めてしまいたいくらい悲しかった。
「藤宮先輩」
ゆっくりと近づいて声をかける。
振り向いた先輩は、「須藤くん!」と笑顔で駆け寄ってきた。
「先輩、卒業おめでとうございます」
「ありがとう。……この一年、一緒にいてくれて本当にありがとう。須藤くんと花の世話ができて、すごく楽しかった」
「それは俺のほうです。先輩に花のこといろいろ教われて、嬉しかった。ありがとうございました」
頭を下げると、喉が詰まって言葉が出ない。
先輩は少し屈んで、俺の顔を見上げた。
「……泣かないでよ」
「ごめ、ごめんなさい……笑顔で、見送りたかったんですけど」
「私と別れて泣いちゃうのに、それでも、何も言ってくれないんだね……?」
先輩がどんな顔でそれを言っているのか、目の前がぼやけていて全然わからなかった。
俺は突っ立ったまま、うつむいて、肩をふるわせることしかできない。
本当に、情けなくてかっこ悪い。
「須藤くん」
「……はい」
「一個、お願いしていい?」
頬に何かが触れた。手探りで確かめると、それはハンカチで、先輩が俺の顔をそっとぬぐってくれていたらしい。
瞬きをしたら、思ったより近くに先輩がいて、心臓が跳ねた。
「せん、ぱい……?」
「小春くん、どうして私に『好き』って言わないの? もう、好きじゃないの?」
「好きです。大好きです。世界で一番好きです。……でも、先輩は……」
「桐子」
「……桐子さんは、実家の花屋さん、継ぎたいんですよね。じゃあ、俺は桐子さんに好きって言えないです。俺は、あなたの夢の邪魔になりたくない」
ハンカチを持ったままの先輩の手をそっと握った。
折れそうなくらい細くて、乾いた指先だった。
ぎゅっと目を閉じた。体の中の息を全部吐いて、それから必要な分だけ吸う。
冷たい空気で、頭が冷えた。
「桐子さん。俺、あなたに初めて会ったときから、ずっと好きでした。でも、俺は実家を継がなきゃいけないから、一緒にはいられません。夢を語るときの、あのキラキラした顔が好きなんです。だから、曇らせたくない。俺は……一緒にはいられないけど、ずっとずっと、あなたの夢を応援しています」
握ったままの手の指先に、そっと唇を触れさせて、すぐに離す。次に手の甲、手のひら、最後に手首にキスして、先輩の手を離した。
藤宮先輩が、目を丸くして俺を見上げた。
我ながら、かなりキザなことをしたと思う。どうしよう、と戸惑った瞬間、先輩の目からぽろっと涙がこぼれた。
「えっ、ちょ、先輩!? 泣かないでください……! ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
「ばか! ばかばか、ばか!」
「ごめんなさい、ばかです……」
先輩は俺の胸をポカポカ叩いてくる。まったく痛くはないのに、止めさせることができなかった。
やがて、先輩は俺の学ランをぎゅっと掴んで、うつむいた。
「あの、先輩……?」
ポケットからハンカチを出す。くしゃくしゃだけど、汚くは……いや、さっきトイレのあと使ったわ。ダメだ、俺は先輩の涙を拭いてあげることもできない。
「……ひとつ、お願い聞いて」
「はい。なんでもします」
「抱きしめて。少しだけでいいから」
「それは……はい、わかりました」
そっと、先輩の華奢な背中に手を回した。柔らかくて、温かくて、いい匂いがして、寒いはずなのに汗が出た。俺の背中にも腕が回されて、抱きしめられる。
どれくらいの時間だったか、全然わからなかった。五分かもしれないし、十分かもしれない。本当は、三十秒くらいだったのかもしれない。
とにかく、それくらいしてから、先輩はゆっくり俺から離れた。
「……ありがとう」
俺はまだ名残惜しくて、完全に手を離せない。
見上げた先輩の瞳にはまだ涙が残っていて、まぶたは赤く腫れ、口はすねたように尖っていた。
……かわいいなあ。やっぱり、この人が世界で一番きれいで、かわいい。
「先輩。先輩の夢が叶うのを、俺は楽しみにしてます」
「……うん。ありがとう、須藤くん」
ようやく笑ってくれた先輩から、俺は本当に名残惜しくて、泣く泣く手を離した。
「いや、泣きすぎだろ」
先輩を笑顔で見送ったあと、生物室に来た。
期末試験前で準備室には入れないから、教室の机に突っ伏してめそめそしている。横では由紀が静かに教科書をめくっていた。
「だって……無理。つらい、ほんとに無理」
「そんなに好きなら、いっそ自分のものにしちゃえばよかったのに。その流れで落とせない女なんていないだろ」
「やだ。先輩には、ずっと笑っててほしい。俺のワガママで夢を捨てさせるなんて、できない」
「じゃあ、須藤が家を出るって選択肢はないわけ?」
「ない。……それは、ない」
「それでそこまで落ち込んでるとか、どうしようもないな」
呆れたように言って、由紀はまた静かに教科書をめくった。
一人でめそめそしていると、教室の扉が開いた。
「あ、いたいた。ゲーセン行こうぜ」
騒がしく入ってきたのは坂木。その後ろには美園もいる。
「今、失恋して泣いてるから無理」
「明日から期末試験だっつうの」
顔をしかめた由紀に、坂木がニヤリと笑った。
「試験なんて、寝る前に教科書読めばどうにかなるって」
「そうそう、失恋なんてパーッと遊べば忘れられるよ。ゲーセン行こ」
二人は机の前まで来て、やけにテンションが高い。
「……それもそうだな」
由紀まで頷いて、教科書をカバンにしまいはじめた。
それもそう、じゃねえんだよ。……とは思うけど、この三人はいつも学年十位以内をキープしてる。まあ、俺もそれより落ちたことはないけど。
さすがに試験前日にゲーセン行って、それでも上位を取るとか鼻につく。だからそういうバカは、この四人だけの内輪ノリで済ませる。
「おい、行くぞ須藤。泣いたままでいいから。お前がいないと寂しいんだよ」
「……マジで?」
「マジ。お前がいないと人数が奇数になって、ホッケーとかレーシングやりにくいし」
「……そんなこったろうと思ったよ」
立ち上がって、袖で顔を拭き、騒がしい三人のあとを追った。