第一夢 夢の世界にようこそ
ガタン、という振動でウズハは目覚める。
そこは目覚める前と同じく満員電車の中であった。
四方は項垂れる様に首を傾げ、便利な鉄の板をただ見つめているサラリーマンで囲まれている。
窓の外は……周りが黒のスーツで埋め尽くされていて分からなかったので、ウズハも自身のスマホを取り出して時刻を確認する。
ブルーライトが寝起きの目を刺すのを堪え、見たくもない__それも、おびただしい数のメール通知を無視し、表示された数字を見る。
午後11時30分という時刻が目に映った。
幸いにも、これは"寝過ごした"という事を意味してはいなかった。目的地であるウズハの自宅まで、あと10分ほどだろう。
「次の到着駅は___」
無機質なアナウンスが電車内を駆ける。そのアナウンスからも、ウズハの考えを肯定するようであった。
ウズハは残りの10分間、せめて明日の自分に迷惑がかからないよう__無視していたメール群へと指を進めた。
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家に着く。
ウズハの自宅は駅からそう遠くないものの、ちょっとした地震ですぐに倒壊してしまいそうなぼろいアパートだ。家賃が非常に安かった。
ところどころ塗装のはげた階段を上り、奥から二番目の扉に足を運ぶ。
……扉に手をかける前に、ウズハは左隣の扉__つまり、最も奥側の扉の前に、随分と大きなダンボールが置かれているのを目にする。
引っ越すのだろうか。いやそれにしても荷物をてきとうに放るものだろうかと思ったが、結局は分からない。荷物を触っているところを見られて問題になりたくもないため分かる必要もあるまい。
ダンボールは大きく、玄関扉を塞ぐように置かれている。
持ってはいないが、あの箱であれば相当重いだろう。
出入りが面倒になっていて可哀想とは思わなかった。あの隣人はよくげらげらと騒ぐのが壁越しに聞こえるので、寧ろざまあみろとウズハは汚く綻ぶ。
ぎい__蝶番の軋む音を鳴らしながらウズハは戸を開いた。
誰もいないが、ウズハは「ただいま」と呟く。
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やることは決まっている。食事、風呂、掃除、そして床に就く準備だ。
明日も朝早くから仕事があるが、ウズハは人間であるため、多少の睡眠時間が必要である。
家に帰ってからの作業は……繁忙期ならしうるが、今はそうではない。
そのため、床に就くまでにウズハは1時間もかけなかった。労働後の体には難しいようにも思われる速さだが、慣れたものである。
使い古した敷布団を広げ、そこに体を乱暴に放り投げる。ぼさ__という音の発信源は枕からなのか、髪からなのか未だ知らない。知る理由もない。
ただのひとつの音もしない暗夜の中、ウズハは目を閉じた。
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最近はしょっちゅう夢を見る。それも、今は会っていないような不和の人(安直だが、これを不和人としよう)ばかりが出てくる夢だ。
やけに記憶に残るため、しょっちゅう思い出しては不和人達と関わってきたときの過去の後悔が募る。
それがウズハにはとても憂鬱に感じられた。そんな夢ばかり最近は見るものだから、いっそ夢なぞ見たくないと考えていたが、どうにも脳はそうさせてはくれない。
今日も夢を見る。そこは、水族館だった。
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どうして水族館と分かったのか。
夢の世界でウズハはむくりと起き上がる。それと同時に目に映るのは壁の向こうに広がる、区切られた"海"だった。
その海__横長の長方形の形で広がる水槽には、幾多の水生生物が揺らめくように泳いで(或いは、浮かんで)いた。
ほの暗い光はその海を淡く照らし、また水を通して床に映る水面模様の蒼光がウズハにこの場所が水族館であることを理解させた。
しかし、ここが水族館であることや、自身の体が思った通りに動かせている違和感にウズハは次に疑問符を浮かべた。
普段見ている夢であれば、不和人と、どこか分からない__しかし、記憶に残っている場所を断片的に、乱雑にくっつけたような世界で、自分の意思とは関係なく自身の身体が動かされるような感覚であったのだ。
つまり、こうして自分のはっきりとした意識があり、自身の記憶に無い場所が見渡す限りずっと続いていることは信じ難いことである。
そうしてウズハがひとり思案顔を浮かべていると。
がちゃ__ドアノブの音が部屋を抜けた。
それはウズハのいる部屋のものではなかった。おそらく、別の部屋の扉が空いた……そして、この水族館に何かがいることが分かった。
それと同時に、一定のリズムでどこからか足音が聞こえはじめる。
その音は、どうにもこちらへ向かっているようだった。だんだんと音が大きくなっていることをウズハの耳は感知した。
この部屋は見る限り通路に挟まれたような構造であるため、その"何か"がここを通るのは必然である。
ウズハは先程までの思案はどこへやら、思考を切りかえ__"何か"が不和人であること、出会ってから何が起こるのかを危惧して、どこか隠れる場所を探し始めた。
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以外にも隠れられそうな場所は幾つも見つかった。部屋の内装はまるで水族館のエントランスのようになっており、受付のカウンターが特に隠れやすく思えた。
ウズハはそこに潜り、身を丸めてことを過ごすことにした。ここで気づいたのだが、ウズハの服装は眠りに落ちた時と同じ寝巻き姿であった。夢の世界であるとはいえ、やや小っ恥ずかしい感覚がした。
……足音がさらに近づく。ウズハは息をも止めるように努めて音を立てないよう潜んだ。
部屋に響いていた床の音は……幸いにも、だんだんと遠ざかっているように聞こえた。どうやらこの部屋に用があって、しばらく滞在するわけではなさそうだった。
しかし完全に足音が消えるまでウズハはじっとしていた。こういう時、半端なタイミングで安堵すると足をすくわれるという、どこで学んだかも知らない入れ知恵があった。
そして__足音はウズハの耳には届かなくなった。それは、"何か"がここを完全に離れたことを意味していた。
ここでやっとウズハは安堵した。何者なのかは知らないが、何かが起こるわけでも無かったことに不安は取り除かれた。
「___ばぁーー!!!!」
だからこそ、この__子供じみた脅かしを予測できなかった。
「ぎゃぁぁぁあああああ!!!!!」
ウズハは、生まれて二十年と少し、初めて"絶叫"を体感した。
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ケラケラと笑い続ける目の前の"何か"を前に、ウズハは困惑の表情であった。
あの脅かしが予想外に上手くいったことなのか、ウズハのリアクションが面白すぎたのか、"何か"はしばらく腹を抱えて笑っている。
笑いで小刻みに震えるそれは、人型で、白く長い__膝下まであるような、とても長い髪(先端にかけて蒼色となっている)を揺らしている。
顔はまるで人の少女、目は最初__脅かしにあったときに見たが、鮮やかな蒼眼をしていた。
服は七分袖の純白なワンピースで、袖からはそのワンピースと同等の白さをたたえた腕が覗いている。
概ね人間の少女と捉えてもよいものであったが、ウズハはそうは思わなかった。
それは、彼女は「足音もなくカウンターまで近づいた」ことにある。
ウズハは確かに隠れていたときに、足音の消失を感知していた。だと言うのに、それは突拍子もなく現れたのだ。
確かに夢の世界であるためこのような不思議なことが起こることも信じられるが、それにしても気になった。
「ははははっ…おねえちゃん、すごいおもしろいひとだね」
目に笑い涙を浮かべたそれは、薄目でこちらを見ながら話しかける。
「あんなにおどろいたひと、はじめてだよっ」
それは笑顔で__あくまで、笑顔に見えるような表情で話しかける。
「あ、あなたは…?」
「あたし?あたしはね〜」
不意に出てきた疑問符に対しすらすらと答えてゆく"何か"。腕を大仰に広げ、それは返答を口にする。
「イル・シアン って言うの!イルって呼んで!」
……名前を聞いたわけではない。ウズハはそう一人ツッコミを入れるが、問いが悪かったとさらに自己反省する。
「キミは?お名前はなに?」
そう言って"何か"__ イルは小首を傾げて近づく。
「いや、私はあなたの名前を聞きたかったわけでは……」
言いかけて、ウズハはイルの大きな目が潤んでいることに気付いた。
所謂泣き落としであろう。強引がすぎるが、これ以上何か行動を起こされても面倒なのでそれに従う。
「……渦晴です。ウズハで構いません」
それを聞いて、イルは__ぱぁぁ、という擬音が付きそうなほど眩しい笑顔を湛え、「ウズハちゃん!!よろしくね!」と、ウズハの左手を取り、ぶんぶんと振りながら握手する。
とにもかくにも、不和人との遭遇という訳では無いようだ。
正体を聞くタイミングを逃したが、またいつか来ることだろう。
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ウズハは、小鳥の囀りからか、空を切る飛行機の音からか、はたまたアスファルトを駆ける車のクラクションからなのか、途切れていた意識が元に戻る感覚を覚える。
「ん……」
間抜けな声を漏らしながら、閉じていた目を開ける。
そこは代わり映えのない天井、ウズハの家の天井があった。
横のテーブルに置いてあるはずのスマホを仰向けの姿勢のまま乱雑に探る。数瞬、爪にスマホが当たる感触があった。
液晶には、午前5時30分という文字が映っている。
普段と同じ起床時間だった。ウズハは「行かないで」と覆いかぶさっている布団をどかし、朝の支度に向かう。