妹紅と庭石【東方二次創作】
永遠亭の昼下がり。診療所には急患もなく、永琳は文机に向かって患者の記録をつけ、兎たちは屋敷の掃除──とは名ばかりのお喋りに興じていた。
藤原妹紅は、縁側で茶を飲んでいた。
里の住人から案内を頼まれて、永遠亭に立ち寄ったのだ。案内を済ませて帰ろうとすると、使い兎の鈴仙と顔を合わせて、お茶を一杯ご馳走になった。掃除はいいのかと気になったが、外敵が攻めてきたときのために、掃除のような些末な仕事は手を抜いて力を温存している、と言い訳のような答えが返ってきた。
しばらく二人で縁側に座っていたが、鈴仙の耳がぴくりと動いた。
「師匠が見回りに来るかもしれません。お茶は飲んだら置いて帰ってくださいね」
そう囁くと、掃除道具を手にしてどこかに去っていった。一人になった妹紅は、湯呑を傾けて飲み干すと、盆の上に載せておいた。
「……帰るか」
腰を上げたとき、縁側の柱の陰から輝夜が現れて、伸びをしながら口を開いた。先ほどまで昼寝をしていたのかもしれない。
「あら、もう帰るの?」
「用は済んだからな。そっちこそ何の用だよ」
「特に用はないわ。帰り際に挨拶をしようと思っただけよ。せっかく来たのに顔を見ずに帰るなんて無礼じゃないかしら」
「寝言は寝て言え」
挨拶は罵倒の応酬になった。内容は覚えていない。いつものことだ。言い合いがひとしきり過ぎると、妹紅は「じゃあな」と踵を返した。
数歩進んだところで、背後で空気が動くのを感じた。髪がわずかに揺れる。
反射的に飛び退いた瞬間、百貫の庭石が飛んできた。
*
土埃が舞う。
妹紅は地面に片頬を擦りつけたまま、横になっていた。手足がだらりと投げ出される。顔にかかった髪が煩わしいが、払うことはできなかった。腕も足も、指先も、重く痺れたようで感覚がない。顔の前に片手があるのに、指一本動かない。
首を振って髪を払おうとしたが、やめた。動かせば、呼吸が止まりそうな気がした。
庭石は斜め後ろから首を掠めて飛んでいった。潰されこそしなかったが、動きを封じるには十分すぎた。何が飛んできたのか理解するより前に「輝夜にやられた」と結論が出る。首をやられると、物を考えても体が言うことを聞かなくなる。
視界の端で草が風にそよぐ。小指の先ほどの白い穂がついていた。体の奥底では熱が燻っていて、たぶん数秒後には燃えてしまうだろう。自分の身も、この草も燃えて灰になる。
衣擦れが聞こえる。宿敵の気配は、嫌味なほどゆっくりと近づいてきた。
──数秒。いや、もう少し待とう。
「ふふ。まさか当たるとは思わなかったわ」
焦るな、と自分に言い聞かせる。
「動けないの? 可哀相に。起こしてあげる」
草の穂を覆って、赤色のスカートの裾が重なる。輝夜がしゃがみ込んで、白い指先でこちらの頬に触れた。頬に触れる手がやけに冷たいのは、自分が熱くなっているからだろうか。指は頬をなぞって唇を這う。
──今だ。
唇を動かして、輝夜の指先を食む。噛んでやることはできなかったが、そっちは本題じゃない。
熱が体を突き抜けていく。輝夜が身を退くより先に、炎は地面を焦がし、輝夜のスカートの裾を焼き、二人を包むように火柱が噴き上がった。巻き添えだな、と口元で呟いて、妹紅は意識を手放した。
*
永遠亭の中庭。
目を覚ました妹紅は、首に手をやって様子を確かめた。手の指は滑らかに動き、首の痛みも残っていない。半身不随になっても治ってしまうのだから、蓬莱人はつくづく都合が良いものだ。
草が焦げていたが、幸いにも屋敷に燃え移ることはなかった。
傍らで寝転がっていた輝夜も目を覚まし、指先を眺めながら「何すんのよ」と文句を言った。
「仕返し」
「息ができてるか確かめただけよ」
「ふざけるな。……次触ったら指を噛みちぎるからな」
振り返って歯を剥く妹紅に、輝夜は「野蛮ねえ」と返した。
「あんな岩を投げといてよく言えたな」
野蛮だと言われて否定はできないが、庭石を投げるやつにだけは言われたくない。二戦目が始まろうとしたとき、規則正しい足音が聞こえてきた。
屋敷の廊下から縁側に降りてきたのは、八意永琳だった。呆れ果てた様子で、植え込みを押しつぶした庭石に目を向ける。
「あれはただの岩じゃありません。形と色合いの良いものを選んで、庭師に据え付けてもらった“景石”なのよ。くだらない喧嘩に使われるなんて、まったく」
言葉を失った二人に、永琳は話を続けた。
「中庭は客人の目に触れる場所です。植え込みに庭石が突っ込んでいたら、何事かと思われます。元の場所に戻してきなさい」
「やーよ。あんな重いもの。爪が割れたらどうするの」
「お前が投げたんだろ!!」
どっちでもいいから今すぐ直しなさい、と永琳は命じた。輝夜は縁側に座り込んで扇を取り出し、片付ける気はなさそうだった。
妹紅は舌打ちをして、庭石のほうに向かった。投げたのは輝夜だったが、自分たちの痴話喧嘩の尻拭いを人にやらせるのは気が進まない。それに、後始末をしないで見ているだけの同類になるのも癪だった。
腰を落として庭石に手をかけたが、びくともしなかった。元あった場所に戻すなど無理な話だった。
「……なんなんだよ、くそ」
腕が震える。根を張ったように動かない庭石と組み合っていると、永琳の声が静かに響いた。
「代わるわ」
振り返って顔を合わせる気になれず、妹紅はその場で動きを止めた。横に来た永琳に肩をそっと押され、横に避けることになる。
「……そういう真面目なところ、嫌いじゃないわよ」
永琳は袖をまくりながら呟くと、両手で庭石を抱えて歩き出した。全く動かなかった巨石をこともなげに持ち上げ、息を乱さず歩いていく。
──いや、ちょっと待て。
妹紅は目を見開いて永琳の背中を見つめていた。輝夜への怒りも今だけは忘れている。
──あの人を怒らせるのは、やめておこう。
庭石を元の場所に据え直し、服の埃を払う永琳を眺めて、妹紅はそう心に刻むのだった。