厄病女神と謎の組織
あるうららかな初春の日の午前。
ベッドに潜り込んでくるというふざけた起こし方で厄病女神に起こされた俺は、朝飯を食ってから、特にすることもなく部屋でゴロゴロと古代ペルム紀の生物大絶滅についての本を読んでいた。
ペルム紀は今から三億年から二億五千万年前の超大陸パンゲアが形成された時期で、それに伴う火山活動の活性化により温暖化が進み、海水温が急上昇し、海底のメタンハイドレードが大量に気化し、更なる温暖化を生み出していった。酸素と反応するメタンが大量に放出されたことで酸素濃度は急減し、全海洋で酸素欠乏(スーパーアノキシア或いは超酸素欠乏事件)と呼ばれる現象が発生する。また、同時期に直径五〇kmもの巨大隕石が衝突したと考えられている。これらの要因によって、地球上の全ての生物種のおよそ九割からそれ以上が絶滅したという地球史上最大の大量絶滅が発生している。この大量絶滅によって古生代にわたり最も繁栄した三葉虫も絶滅している。これ以降、世界は爬虫類、つまり、恐竜の時代へと移ろっていく。ちなみに、このペルム紀の陸上で多く見られたのは哺乳類型爬虫類とも呼ばれる単弓類で、彼らは次の爬虫類の時代(三畳紀・ジュラ紀・白亜紀)に衰退していくが、やがて、一部が哺乳類へと進化し、我々の時代へと移ろっていくのである。
しかし、これらは、俺が大学で学んでいる内容とは全く関係がない。単なる趣味である。
と、そんなふうに地球の気候変動と生物の絶滅について勉強していると、携帯電話が鳴った。
「はい、もしもしー。冴上ですー」
「おい、貴様。何、普通に俺の携帯電話に出てるんだ。貸せ」
勝手に携帯電話に出ていた絹坂から携帯電話を奪い取る。
「もしもし?」
「あー。冴上君?」
「はい。仁井見先輩ですか?」
声から察しをつけて確認する。仁井見先輩は、俺が所属している、とある組織の先輩だ。確か教育学部の三年じゃない春から四年だったはずだ。
「そうそう。ところで、さっきの女の子は誰かなー? 彼女?」
「違いま……」
咄嗟に否定しようとして、ふと口が止まる。大変遺憾ながら違くないのだ。忌々しい。
「ははは。まぁ、いいよ。今はちょっと急用だからね」
少し真面目な空気をまとった仁井見先輩の言葉に俺はあることにすぐ思い至る。
「用事っていうのは、午後の頭取会についてですか?」
「察しがいいね」
「そりゃあ、今日のことですからね。で、話っていうのは、頭取首座の件ですか?」
頭取首座とは、まぁ、俺が所属する組織の実質的なトップのことであり、その頭取首座を選出するのが今日の午後予定されている頭取会の重要な議題であった。
組織の最高幹部(通称頭取と称される)は年度が終わる直前に次期幹部を選出する慣例なのであるが、その頭取を代表する頭取首座は年度始めの頭取会で頭取の中から多数決で選ばれる慣例なのである。
「うん。そう。音沢君は本気で首座を狙ってきているみたいだよ。君はどうなの?」
音沢か。法学部の三年だな。俺と同学年だが、一年浪人しているから、年は一つ上だったはずだ。卒業生の引退に伴って、幹事長職に就任している。そこそこ、交流はある相手だが、どーにも、あまり馬が合わない。
「俺は自薦はしませんよ」
「じゃあ、他薦されたら、なる気はあるの?」
「それは、あー」
「はははは。冗談だよ。まぁ、幹事所は長く首座を出していないからね」
「歴代首座になった幹事長がイマイチの人ばかりでしたからね」
「うん。歴代、幹事所出身の首座には、何でかろくな人がいないんだよねー。初代首座の笹場幹事長は小学生をストーキングしていたことが問題となって辞任。国府野幹事長はペットの鳩を人質に取られて、脅迫に屈して辞任。廣井幹事長は財政の建て直しに失敗して辞任」
確かに、ろくでもない奴しかいない。とはいえ、他の首座の辞任の原因も、組織の金をバラまく汚職が露見したり、マザコンだったことを暴露されたり、ラブレターを公表されたり、と、ろくな理由ではないのだが。まともに政権を維持できたのは歴代一九人いる首座のうち五人しかいないのだ。他のお歴々は何らかの原因で、辞任したり、頭取会で解任されたりしているのだ。まぁ、幹部連中がどいつもこいつも隙あらば他の幹部を引き摺り落としてやろうと画策しているのが第一の原因のような気がしなくもない。
「そうそう。こんな雑談している暇じゃなかった。で、君は、誰に票を入れるつもりなの?」
単刀直入だな。
「そーいう仁井見先輩はどうなんですか? ご自身が?」
「僕はやらないよ。僕の先代の緑川先輩が首座だったからね。まぁ、半年だけの政権だったけどさ。しかも、ほとんどれレームダック状態」
あぁ、先代の頭取首座である緑川先輩は、一応、卒業まで頭取首座だったが、風紀粛清・緊縮財政を掲げて、厳しい組織運営に挑んだが、反発が大きく、ほとんど失脚していたからなぁ。組織をまとめるというのは難しいことだ。
「僕は中鹿君を推そうと思っているんだよね」
中鹿先輩か。組織の財政を担当する勝手方をまとめる勝手方頭取を務めていらっしゃる。経済学部の四年で、俺はよく知らん。たまにうちの部署の予算を無心するときにしか会わないからな。
「何でですかね?」
「君、うちの財政のヤバさ知ってる?」
「あー。まぁ、そこそこ」
「もう十年くらい前から財政健全化はうちの重大な課題の一つだよ。それが未だに解決されていないのは大きな問題だとは思わないかい? そこでだ。経済学部で、経営学とか何かそんなのを勉強しているらしい中鹿君に組織運営を任せてみようとは思わないかい? 彼は、温厚で公平だしね」
「そーなんですか」
「そーなんですよ」
うーむ。
「まぁ、考えておきましょう」
「うん。よろしく」
そうして、電話は切れた。
うーむ。どーしたもんかなー?
「先輩先輩ー。今の電話は何ですかー? 頭取とか首座とか幹事長とかって何なんですかー?」
「貴様には関係のないことだ」
絹坂はじと目で俺を見てくる。ムカつく顔だな。何が言いたいというのだ?
「先輩ったらー、まーた、高校のときみたいにー、学校当局とその傀儡と化している生徒会を打倒しー、生徒による生徒のための生徒の学校政治を実現するのだーとか言って、先生相手に悪戯して怒られたりー、生徒会に無理難題押し付けて泣かせたりー、学校行事に茶々いれたりしているんですかー?」
高校時代、俺と絹坂は共にそんなふうな組織に所属していて、高校生活を基本的には概ね面白おかしく楽しく過ごしたのである。俺と絹坂が親しくなったのもこの組織の活動を通じてである。
だが、しかし、その組織も実態はどうであれ建前はもっと真面目な活動目標を示していたはずだ。
「貴様、組織のことをそんなふうに考えていたのか?」
「違うんですかー?」
聞き返されて、些か困る。相手が組織の実態を知らぬ外部者やらであれば、いくらでも詭弁を弄して組織の崇高なる存在意義と活動目標について語り尽くしてやるところだが、組織に所属し、俺の次代に最高幹部まで上り詰め、裏も表も知り尽くした絹坂にそんなことを言う意味などありはしない。
「あー。いや、まぁ、それほど、違くはないが、しかし、意味のない組織ではなかったのだぞ? 我々がいたからこそ、教諭陣は指導に熱が入り、仕事にやりがいを持ち、生徒会連中も自分で考えて行動し、困った奴らの相手をすることによって、社会の理不尽さの疑似体験をすることができ、そして、何よりも、組織に所属していた我々は、好き勝手なことをやりまくって、スリリングで刺激的で愉快な学生生活を送ることができたのだ」
「ものも言いようって、こーいうときに使うんですかー?」
「うむ」
脳天気なマヌケに見えて、中々わかっているではないか。
「今、先輩がやっている組織もそんな感じですかー?」
「いや、今のは違う。表立って、大学当局や自治会なんかに歯向かったりはしていない」
「じゃあ、何をやっているんですかー?」
「秘密だ」
それだけ言って、俺は外出することにした。秘密組織の会合に出席するためである。絹坂はぎゃーぎゃーと教えろ教えろと騒ぎながらついてきたものの、途中で拳骨を食らわせると、すごすごと帰っていった。