厄病女神風呂に乱入す
風呂場に入った途端、睡眠を取っていたおかげで一時的に落ち着いていた吐き気が一挙にこみ上げてきて、風呂場の排水溝にゲロを注ぎ込んで嫌な気分になってから、シャワーを浴びた。当然、湯船には湯など張っていないので、シャワーのみの風呂になる。暦の上では既に春とはいえ、未だ早春である。屋内とはいえ、暖房なき風呂場にて裸でいると少々肌寒さを感じるものの、致し方あるまい。早々に湯を浴びれば風邪をひくような事態には至るまい。
排水溝から仄かに立ち上る忌々しい香りをかき消すようにシャワー全開で頭からざばざばと湯を浴びながら、暫し黙考する。
さて、今の状況をどうすべきか。
一応彼女である厄病女神がやって来て、そこへ、いつも俺の部屋の家事全般をやってくれていた京島が来て、二人が鉢合わせ。そして、絹坂が怒る。当たり前といえば当たり前であり、誰が悪いかっていえば、まぁ、強いて言えば、認め難いことではあるが、俺が悪い、かもしれない。
俺が京島の申し出を丁重にお断りして気持ちだけ頂いておけば問題なかったのかも。
しかし、そうは言っても、こうなってしまった事実は如何ともしがたい。困ったものだ。
困った困ったと俺が頭を悩ませていると、背中がぞくぞくしてきた。何だ。まさか、メリーちゃんか? という思いが一瞬頭の片隅を掠めるも、すぐに、これはただの寒気だと分かった。背中に冷たい風を感じるのだ。何故か? 確かめずとも分かる。風呂に入っているとき、ドアを開けてみるがいい。シャワーの湯気で温められた風呂場内の空気よりもドアから入り込んでくる空気の方が冷たいであろう。
「くぉらぁっ! 何で、ドアを開けたぁっ!?」
振り返って怒鳴り散らす。
思ったとおり、ドアは開けられていて、絹坂のマヌケ面がそこにあった。
「いやぁー。お背中をお流ししようかなーと思いましてー」
「いらん! ていうか、何故、ドアが開いておるんだ!? 鍵を閉めたはずだぞ!?」
「風呂場の鍵って家の鍵と同じ場合がよくあるんですよねー」
そうだったのか。いや、一人暮らしだと風呂に入るとき、わざわざ鍵を閉めるようなこともない故、どんな鍵がついているのか分かっておらんかった。
「さぁさぁ、先輩、お背中をお流ししましょー」
絹坂は先の俺の言葉を全く聞いていなかったらしく、とっとこ風呂場に上がりこんできた。
「だから、いらんっつっておろうがっ! 入ってくんなっ! 出てけっ!」
「えー。そんなー。一糸纏わぬ年頃の娘を外に放り出そうっていうんですかー?」
「何も外に出ろとは一言も言ってねーだろうがっ! 居間で大人しくしておれっ!」
「ほうっ! ということは、この部屋にいてもいいってことですねー。これから何年間か宜しくお願いしますー」
「誰がぬなこと言ったっ!? だから、入ってくんなっつの!」
俺の言葉をさらっと無視して絹坂はずかずかと風呂場に闖入してきた。何も身に着けていない生まれたまんまの姿だ。水着もタオルもない。つまり、全裸だった。まぁ、俺もだが。風呂の中ゆえ当然といえば、当然ではあるが。
「さあさあー、お背中お流ししますよー。ほらー、先輩先輩、そちらに座ってー、ゆるりとしてくださいー」
「いや、出てけっつのっ!」
「何でですかー?」
「何でって……」
問われて、言葉に詰まる。
「そもそも、お互いの裸なんてもう見慣れてるじゃないですかー。主にベッドの上とかでー。えへ」
そう言って絹坂はだらしない顔でえへえへと笑い出した。気持ち悪い奴だな。
「そんな何度も見ているわけではあるまい。えーっと、五回くらいだろ」
「六回ですよー」
一々数えているのか。阿呆らしい。
「とにかくだ。とっととここから出て行くがいい。いい加減にせんと蹴り飛ばすぞ」
「嫌ですー。出ていかないですー」
こいつ、ムカつくぞ。
俺は短気でかなり喋る方ではあり、勢いだけで言葉にしてしまうという欠点があるのだが、しかし、俺は有限実行の人でもある。勢いだけで言ってしまったこともかなりの確立で有限実行する。己の言葉に責任を持つのだ。
俺は先の言葉どおり行動した。つまり、絹坂を蹴飛ばした。
「くのっ! 出てけっ!」
「ぎゃーっ! マジで蹴るなんて酷いですーっ! DVだっ! DVだーっ! DVDだーっ!」
「DVD違うっ! いいから、さっさと出てけっ!」
「嫌ですーっ!」
俺と絹坂は再び押し問答を始め、俺はすぐに強硬的な物理的行動に出たが、その俺の脚に絹坂がしがみついてきた。これでは、蹴り出すことも、俺が外へ脱出することも不可能だ。
暫く、お互いを罵り合いながら、風呂場でどったんばったんしていると、俺はうっかり足を滑らせて絹坂もろとも転倒した。俺はけつやら腕やら背中やらをあちこちにぶつけて、すっかり戦意を喪失し、各所からの鈍痛に悲鳴を上げる。
「いだいっ! けつを打ったぞっ! 腕も痛いわっ!」
「先輩が暴れるからいけないんですよー」
足元にいた絹坂は被害が少なく、平然と俺に抱きついている。
「さあさあー、いい加減、暴れるのは諦めてくださいー」
マウントポジションにある絹坂はにこにこと笑いながら俺を見下ろして言った。
事ここに至っては最早止むを得まい。第一、俺は転倒して痛む箇所を体のあちこちにこさえた結果、すっかり抵抗意欲を失っていた。最早、怒鳴るのも億劫になってきて、背中を流させるくらいならば良いかという気分になった。
「非常に不満この上ないが、止むを得まい。勝手にしやがれ」
「はーい」
俺は思いっきりしかめ面で渋々と風呂場椅子に腰掛け、ドア側にいる絹坂へ背を向ける。
絹坂は何が楽しいのかにこにこと笑いながら、石鹸で泡立てたタオルで俺の背中を洗い始める。
と、再び、ドアが開く音と気配。
今度は何事か。と俺と絹坂が振り返った先には、タオルで辛うじて胸やら股やらを隠している京島が真っ赤な顔をしていた。
俺と絹坂が呆気にとられて何も言えず何もできずにいると、京島はいそいそと風呂場に入り込むと、ドアを閉め、微かにぷるぷる震えながら仰った。
「わ、私も手伝おう……」
「「はぁっ!?」」
奇しくも、俺と絹坂は全く同じ素っ頓狂な声を上げた。
叫び声は同じではあったが、含んでいるものは大きく違う。俺のは驚き百パーセントだったが、絹坂の叫び声には驚きの他に疑念と怒りを含んでいるようだった。眉間に皺を寄せ、目尻を吊り上げ、口をへの字にして、額に血管を浮かべている。こいつも怒ろうと思えば怒れるらしい。こいつはいつ見ても大抵へらへら笑ってるかぶーたれているからな。怒り顔を作れるとは意外であった。
「一体何を言っているんですかー?」
絹坂の言葉は刺々しい。思うのだが、こいつは妙に京島に辛く当たっているような気がするな。いや、立場を考えれば当然っちゃあ当然なんだが。しかし、よくよく考えると、絹坂は俺に対するときと他の人間に対するときの態度がかなり違っているような気がしてきた。どっちが本物だ?
「今の状況がどーいうものかわかって言ってるんですかー? そもそも、京島さんって、自分の立場分かってますー?」
絹坂の言葉は、語尾がだらしないのはいつもどおりではあるが、かなり刺々しく、酷く印象が悪い言い方だ。嫌味な敵役みたいではないか。
睨まれ刺々しい言葉で責められた京島はいくらかたじろぎつつも退くことはなかった。
「わ、私も、彼には世話になっているから、せめて、恩返しを」
「はっ! まさか、今までも恩返しと称してこんなことを先輩にしていたわけじゃあないですよねっ!? 先輩っ! どーいうことですかっ!」
「んなわけないだろっ! 黙ってそこまでされるほど俺だって鈍感ではないわっ!」
絹坂はじと目で俺を見て、京島を睨む。
「とにかく、出ていって下さいよー。これから、私と先輩は、恋人同士、愛を深め合うのですからー。京島さんは台所でびーふすとろがのふとやらを温めていればいいんですー」
嫌味な台詞を吐く絹坂。全くもってヒロインの言葉とは思えない。
だが、そんな絹坂の嫌味台詞にも京島はめげないのであった。
「いや、私にも、是非、彼に恩返しの為、背中を流させて欲しい」
「だめーっ! だめですーっ! 先輩の背中は私だけのものなんですーっ!」
なんだか京島の方が健気なヒロインに見えてくる。絹坂の言動は独りよがりで我侭なガキのようだ。何で、俺、絹坂と付き合っているんだ?
とはいえ、どれほど感謝していたとしても、うら若い娘が恩返しに男の背中を流すってのは非常識極まりないのは事実だ。まぁ、京島としては、今まで邪魔者(絹坂)がいない間にちまちまと外堀を埋めて、恋人の座を奪取しようと目論んでいた(或いは、別れた後の後釜を狙っていた)ところ、急に邪魔者が再来して、急接近するものだから、焦って深くも考えずとりあえず邪魔者と同じ行動を取ってみたというところだろうか。そう考えると、京島も中々クールに見えて単純で考えなしな奴だな。
そもそも、何だって、俺は絹坂やら京島やらに背中を流されなきゃならんのだ。それくらい、一人でできるっつの。俺は介護老人じゃあないのだぞ。
言い争いをする二人の娘を放置して黙々と考えていると、なんだか、現状が酷く馬鹿らしく思えてきて、かなりイライラしてきた俺は黙ってさっさと自分の体を洗うと、絹坂と京島を押し退けて風呂を出た。
「アレッ!? 何で、先輩、お風呂出ちゃうんですかー?」
「ま、まだ、恩返しをしていないのだが……」
「やっかましいっ! 貴様らが騒いでいるうちに体なんぞとうに洗ってしまったわっ! そんなに風呂が好きなら二人で暫く入っていろっ!」
俺は二人を怒鳴りつけてから、ドアを閉めてやった。更に素早く洗面所を出て、外開きである洗面所のドアを閉め、その前に手近にあった冷蔵庫を苦労して移動させて配置して内側から開けられないように細工した。これで、二人を洗面所内に幽閉することに成功したわけだ。うむ。
「わーっ! 開かないですよーっ!? 先輩、何してるんですかーっ!?」
「わ、私まで、閉じ込めなくてもいいじゃないか。というか、タオルだけでいるのは恥ずかしいのだが……」
「タオル一枚になったのは自分でなったんじゃないですかーっ! ちょっとスタイルいいからって調子に乗ってーっ! きーっ!」
「わぁっ! ちょ、待って! 胸を揉むなっ!」
洗面所から聞こえてくる馬鹿馬鹿しい喧騒に耳を塞いだ俺はさっさと着替えてから、台所に置かれていた京島お手製のビーフストロガノフを温め直した冷ご飯と一緒に頂き、また、少し眠くなったので、ベッドに潜り込んだ。
「おーい。先輩ー。もう夜なんですけどー、いい加減、出してくれませーんかー?」
「すまないが、そろそろ、出してくれないか? もう十分に頭は冷えてると思うんだが……」
聞こえない聞こえない。
何でだろう。お風呂シーンなのに、あんまり色っぽくない……。