厄病女神夕這う
目が覚めて、ふと窓を見ると、窓が真っ赤に染まっていたので、夕刻だと認識した。窓の外が火事なのかと思うくらい真っ赤であったが、あの赤は夕焼けの色に違いあるまい。火事であればとっくの昔に俺は煙に包まれて呆気なく死んじまってるだろうからな。
ベッドの横にある時計を見ると時刻は六時頃だった。確か、あのアホ漫画家、柚子の部屋から出て、自室に戻ってきたのが朝の九時くらいだったはず。それから今まで太陽が大活躍している時間帯の九時間を睡眠に費やしてしまったわけだ。
「なんだか、一日を無駄にした気がする……」
「確かにそうですねぇー。完全なる昼夜逆転ですねぇー」
独り言のつもりでぼやいたところ、隣にいた奴が同調した。
ぎょっとしてそいつを見る。一瞬、誰かと思ったものの、俺が寝ている間に部屋に侵入し、更には布団の中へまで闖入するような奴といったら厄病女神しか思いつかん。
「貴様、何、勝手に人の布団に入っておるかっ!?」
「夜這いですよー。夜這いー」
絹坂はにかにかと嬉しそうに笑いながらほざきおった。
「夜じゃないだろうが」
「じゃあ、夕這いー」
「そんな言葉はない!」
なんでもかんでも好き勝手に意味が通じそうな言葉を作るんじゃない。一応、日本語には決まった言葉というのがあって、それを用いて日本人は会話をしているのだぞ。そのルールを破って好き勝手な言葉を作って使っておっては日本人に通じない日本語ができてしまい、挙句には日本語が破綻しかねんぞ。これだから、最近の若いもんは正しい日本語が、
「まぁまぁ、言葉遊びなんかどーでもいいじゃあありませんかー」
「てめーが始めたんだろうがっ! とりあえず、布団から出ろっ!」
「えー! 何でですかー!?」
首根っこを引っ掴んで引き摺り出そうとするも、絹坂は頑強に布団からの放出を拒む。俺の体にしがみついてくる。貴様は子泣き爺かっ!?
「くぉらっ! 出てけっつのっ!」
「何でですかー!? いいじゃないですかー!? 久しぶりの再会ですよー? 元旦以来じゃあないですかー!」
確かに、絹坂に会うのは大晦日から元旦にかけて帰省していたとき以来だ。およそ四ヵ月ぶりくらいではある。
「それがどうした?」
「再会の喜びとか感動とかないんですかぁー!? こう、心が動かないんですかー?」
絹坂は胸を鷲掴みにして、そこにあるハートが動かないのか!? と妙に暑苦しい顔で訴えかけてくる。てか、ハートを鷲掴みたいなら自分の胸を掴めよ。爪が食い込んで痛いではないか。
「ないんですかぁっ!?」
「ぬわぁいっ!」
無視して、絹坂を引き剥がそうと頭を掴んで引っ張っていると、絹坂が更にしつこく訴えかけてきたので、はっきりと言い捨ててやった。そんなことくらいで俺の心が動揺して堪るか。
「何でですかーっ!? おかしくないですかぁっ!?」
「何がおかしいというのだ。おら、離れろっ!」
「いや、だってー! 本当におかしいですよーっ!」
絹坂は俺にしがみついたまま、しきりと「おかしい」を繰り返す。貴様は枕草子でも読んでいるのか?
何がそんなにもおかしいというのか? その理由を問うと、彼女は顔を真っ赤にしてぷりぷりと怒り出した。
「理由が分からないとか意味わかんないですよー! てか、先輩ー! わざとですねー! わざとはぐらかしてますねー!」
「さて、何のことかな?」
「もう! 先輩は酷い人ですー! 鬼ー! 悪魔ー! 鬼畜ー!」
「ふはは。なんとでも言うがいい」
どれもこれも言われ慣れた言葉ばかりだしな。今更、何度呼ばれようとも全く気にならんわ。
「畜生ー! 人でなしー! うんこー!」
「おいっ! 最後のは違うだろっ! てか、うんことか言うなっ!」
気の長い俺でもさすがにうんこ呼ばわりには怒らざるを得ない。
「酷いことを言う先輩なんかうんこですよー! うんこうんこうんこー!」
「うんこを連呼するなっ! 貴様、頭おかしいんじゃないかっ!?」
怒鳴り散らしながら頭を鷲掴み握り潰さんばかりに指に力を入れてやると、絹坂はようやっと「うんこ」を連呼することを止めた。
「だって、先輩が酷いんですよー。先輩が私に会っても何の反応もしてくれないからー」
絹坂はぶちぶちと文句を垂れるが、んな下らんことで「うんこ」呼ばわりされて堪るかってんだ。
「そもそも、先輩が悪いんですー。せっかく、愛すべき彼女と四ヶ月ぶりに再会できたっていうのに全然嬉しそうにしないんですからー」
彼女の言葉に俺は「むぅ」と渋い顔で黙り込む。
確かに絹坂は去年の八月末をもって、俺の二代目彼女に就任している身なのだ。
全く理解できないことなのだが、こやつは高校時代から俺のことを、まぁ、自分自身で言うのも何だが、俺のことを好いていたらしく、時と場合が許せば、四六時中、いつでもどこでも金魚の糞の如く俺に付きまとい、種々のアピールをしてきたものだ。まったくもって、どうして、どう考えても宜しくない人格の俺のことを好いたのかは全く理解できないことだ。酔狂にも程がある。
彼女のアピールは、どう考えても先輩後輩という関係からは繋がりそうもない言動も多々あった。このことにとんと気付かないほど俺は鈍感な人間ではない。そんじょそこらのラブコメ鈍感主人公どもと一緒にされては困る。
しかしながら、相手の好意に気付くことと、相手の好意に応えることとは全く別である。諸般の事情により男女交際を忌避していた俺は彼女の求愛行為を一年ほどの間、無視し続けた。結果、卒業式の日に殺されかけた。
その後、一年半ほど俺と絹坂の間は音信不通となっていたのだが、去年の七月末頃、厄病女神は夏休みを利用して、突然、俺の部屋に押しかけてきたかと思うと、そのまま寄生しやがったのだ。
その後、まぁ、色々とすったもんだあった挙句、八月末には俺の彼女の座に居座りやがった。この辺の詳細は前々作『厄病女神寄生中』を参考して頂きたい。宣伝と言われてもしょうがないのだが、これ以上、回想説明文を書き並べるのも如何なものか。
とにかく、昨年八月末から、そして、今に至るまで現在進行中で、絹坂は俺の彼女なのだ。遺憾なこととは言い難いが、それに近い。
「普通、彼女が何ヶ月ぶりかに会いに来たら、嬉しがるもんなんじゃないですかー?」
「知らんがな」
「こう、抱き締めあったり、チューしたりしちゃうもんじゃないですかー? ドラマとか漫画とかで見ませんー? そーいうのー」
「そんな恥知らずなことするくらいなら死んだ方がマシだっ!」
「そんなに全力否定しなくてもいいじゃないですかー」
「じゃかぁしゃぁっ! さっさと出てけ!」
いい加減、腹が立ってきて絹坂を布団より追放せんと、手足を駆使するも、しぶといことに関してはゴキブリにも雑草にも引けを取らぬ絹坂が大人しく布団からまろび出る様子はない。
暫しの間、ベッドの上で押し合い圧し合いしていると、不意に掌に何かふにふにと柔らかいものを感じた。思わず、というか、反射というか、意図せず、その柔らかいものをぎゅっと握ってしまったところ、
「きゃぅーん」
絹坂が変な声を出した。
「何だいきなり!? 気持ち悪い声を出すなっ! さぶいぼ出るわっ!」
「なっ! 何ですかー!? 彼女の声を気持ち悪いとか失礼なー!」
俺の言葉に絹坂はぷりぷりと怒り出した。
「貴様が気持ち悪い声を出すのが悪いのだ!」
「気持ち悪い気持ち悪いって失礼な人ですねーっ! 普通、彼女相手にそんなこと言いますかーっ!?」
「やっかましぃわいっ! とにかく、ベッドから降りろっ! 落ちろっ!」
「嫌ですーっ! 先輩と一緒の布団で寝るのーっ! そして、愛の営みをーっ!」
「うるせぇっ! ベッドから落ちろっ! 地獄へ落ちろっ!」
近過ぎて互いの唾が顔にかかりまくるのも構わず怒鳴り散らし続けると、十分ほどで喉が痛くなってきたので、とりあえず、自然と休戦となり、互いにぜぇぜぇ言いながら布団に包まった。
絹坂がすんすんと鼻を鳴らして呟く。
「ふふ、先輩の臭いがしますー」
「気持ち悪いことを抜かすな」
「もう気持ち悪くてもいいですよーっだー。とにかく、私は先輩の側にいられるだけで幸せなんですー」
絹坂は嬉しそうに目を細め、俺の胸にすりすりと顔を擦り付けてくる。むぅ、俺のキャラ的には押し退けて蹴っ飛ばして踏み潰すくらいやらんといかんのだが、さすがに、ここまで懐かれ、甘えられていると、無下に扱うのも難しい。散々騒いだり怒鳴ったり押し合い圧し合いして疲れたので、そのままにしてやっている、ということにしよう。うむ。
困ったものだと頬を掻きながら、ふと、人影があるのに気付いた。長い髪を後ろで一まとめにした女だ。そして、背が高い。思いつく人物は一人だ。
あぁ、まーた面倒臭いことになるぞ。と俺の第六感が告げている。しかし、どうしようもないのは口惜しいことだ。