厄病女神モテる
厄病女神は幹事長配下である道中方同心であるから、上役である幹事長音沢の傍にいるのは何も問題ではない。その上、俺は奴に音沢のスパイをやれと指示している。うんこ色したふざけた髪の野郎の傍にいて、奴の動向を探るのは重要な任務である。
「しかし、あの2人、会ったばかりにしては距離が近過ぎなかったか?」
人間にはパーソナルスペースという他人に近寄られると不快に感じる空間があるとされる。個人や文化、民族によってそのスペースの広さはそれぞれではあるが、他人相手の会話であれば1m半から2m程度は確保されるべきであろう。
しかしながら、先の絹坂と音沢の距離はそれよりもだいぶ近かった。1mを切っていたのではないだろうか。
「え? そう?」
草田は間抜け面で首を傾げた。こいつは絹坂と音沢の様子を見なかったらしい。役立たずめ。
「そうですね。確かに会ったばかりの男女にしては近い距離でしたね」
薄村がいつもどおりの無表情で同意した。
「しかも、幹事長と道中方同心が二人きりで何を話すことがあるというのか」
この点も俺には疑問であった。道中方同心は最も末端の構成員の位置である。対して、幹事長は道中方のトップである道中奉行よりも更に上、大目付と同等の倶楽部では頭取と呼ばれる最高幹部である。
ピラミッド構造である倶楽部において、その頂点にある幹事長と末端の同心が二人きりで何を話すというのか。
実際、俺とて大目付組織の一番下に位置する徒目付や公用役と会話することはあまりない。業務関係の連絡であれば、徒目付から組頭、小目付、目付を経由して、或いは公用役から組頭、公用人添役、公用人を経由して大目付たる俺の下に連絡が来るものだ。
「さっき、車の中で言ってたとおりスパイ活動がんばってるんじゃない?」
草田は呑気なことを言いながら欠伸をした。その顎蹴り飛ばしてやろうかと思うが、そこまで脚が上がらないので勘弁してやろう。
「大目付。あのほんわかした新入生の知り合いなんですか?」
俺と絹坂の関係を知らない後輩の一人が尋ねた。他の面々も興味深そうに俺を見つめている。
「あんな小娘知らん」
「そんなへったくそな嘘いりませんから」
三人いる小目付の一人である滝川が呆れ顔で手厳しいことを言う。彼女は俺の一年後輩で、同じ学部に所属している。非常に小柄でいつも赤縁の眼鏡をかけていて、基本的にいつも冷静であり、状況分析に優れた期待の若手である。
「先輩の彼女ですか?」
その上、妙に勘が鋭い。
「えぇっ!? 大目付の彼女っ!?」
「冴上先輩、彼女いたんだぁっ!?」
「あのぼんやりした感じの女子? へー、意外」
「なんか、先輩はもっときりっとかっこいい感じの女子が好きだと思ってた」
「ていうか、大目付は恋愛とか軽蔑してそうなイメージだったんだけど」
「うん。確かに」
「恋愛なんざ、子孫を残すための遺伝子の戦略に過ぎん。愛だの恋だの言ってる連中は、結局のところ、セックスをしたいだけであり、それは遺伝子が子孫を残そうという戦略に基づいた行動であり、つまり、恋愛をするってことは、遺伝子に踊らされていることに他ならぬ原始的な行動であると言えよう。とか言ってそうな感じだけどな」
「似てる似てるっ! 超言いそうっ!」
大目付配下の仲間、後輩たちが口々に勝手なことを言い出す。
睨みつけると全員が口を閉じた。黙ってニヤニヤと俺を見ている。なんと、腹立たしい連中だっ!
この一連の動きで、俺と絹坂の関係性は少なくとも仲間内では公然のものとなってしまった。忌々しい。
「それで、何で、彼女さんはうちじゃなくて、音沢のとこなんかにいるんですか?」
「何の因果か。大学で鍋会に遭遇したようでな。延岡に勧誘されて、ほいほい付いて行ったようだ」
滝川の問いに、とりあえず答えておく。今となっては誤魔化したり隠蔽したりしても無意味だしな。
「こいつは俺の女だから、貰って行くぞ。とか言わないんですか!?」
後輩の一人が調子に乗ったことを言い出すので睨んで黙らせる。
「それよりも、音沢派に対するスパイとして利用した方が有益ですからね」
俺の代弁という風に滝川が言い、皆は納得したように頷く。
「さすが、先輩。あんなカワイイ彼女すら利用するなんて、冷血ぅー」
「それでこそ、我らが大目付ってもんよっ」
やんややんやと囃し立てられながら、俺は割り当てのコテージに入った。極めて遺憾ながら草田と同じコテージであった。
各々のコテージで一休みといっても荷物を置いて上着を脱ぎ、便所にでも行って一息吐いていたら一時間などあっという間に過ぎてしまうものだ。
夕食の支度をする刻限となり、俺たちは各々のコテージを出て、オリエンテーションをやった大きなコテージに集まった。そこで賄方の指示に従って食事の支度に取り掛かる。
ある者は炭を熾し、ある者は野菜を洗って切り、ある者は米を研いで炊き、ある者は肉や魚介を焼く用意をするといった次第である。
しかし、何故だか、俺には何の指示も寄越されず、何をしたらいいのか分からなかったので、とりあえず、手近な椅子に座って皆の作業を見守っていた。
怠けているとか、サボっているとか思われるのは遺憾である。夕飯の支度は賄方の仕事であり、部外者である俺が口出し、手出しすべきではないのだ。勿論、手伝いを求められればそれに手を貸すことは吝かではないが、求められもしていないのに余計なお節介を焼くのは避けるべきであろう。
「それってただの言い訳ですよね」
隣に立つ滝川が手厳しいことを言った。
「そう言うお前は何をしとるんだ。俺と同じで、ただ突っ立ってるだけではないか」
「私、料理できないんです」
滝川はしれっとした顔で言い放ち、手にしたチューハイの缶を開けた。
「おい。何勝手に飲もうとしとるんだ。ていうか、お前、成人してたか?」
彼女は俺の一学年下であり、浪人することなく入学していたはずなので、現在の年齢は19歳ではなかろうか。
「私、4月1日生まれなんですよ」
滝川はそう言って、缶に口を付けた。
まぁ、それならば問題はあるまい。
「いや、そうだとしても、皆が料理をしているというのに、勝手に飲み出すのは如何なものか」
そう言った俺の手に、彼女は黙ってコップを握らせ、飲みかけのチューハイを注いだ。
「どうぞ」
「いや、俺が飲みたいわけではなくてな」
「かんぱーい」
俺の持つコップにコンと缶をぶつけて、彼女は再び缶に口を付ける。
困った奴だ。とはいえ、まぁ、仲間内の旅行なんだし、それほど堅苦しいことを言う必要もあるまい。
呆れつつ、俺もコップに口を付けた。
勝手に注がれたチューハイは桃のチューハイであるようで、非常に甘ったるかった。桃缶の汁を少し薄めてアルコールをぶっこんだような味だ。
「ん。先輩。あれ、先輩の彼女さんじゃないですか」
滝川の指す方を見ると、確かにそこにいるのは極めて遺憾ながら俺の彼女という立場に収まっていやがる絹坂である。
その隣には何故だか音沢の姿があり、二人は並んで何やら談笑しながら冷凍肉をバラバラにする作業に勤しんでいた。その距離は極めて近く、肩が触れ合いそうな距離感である。少なくとも異性同士の先輩と後輩の距離感ではあるまい。俺が女だったらセクハラだと訴えることを考えてもおかしくはない近さだ。
「なんだって、奴は音沢と並んでるんだ」
「あら、御嫉妬ですか」
滝川が馬鹿馬鹿しいことを言い出した。
「馬鹿を言うな」
「やはり、嫉妬に御を付けるのはおかしいですか」
「いや、そうじゃない。いや、確かにその日本語はおかしかったが、そうじゃない」
嫉妬を御嫉妬と言おうが嫉妬様と言おうが、そんなもんはどうでもいいのだ。
「嫉妬だと? 何を言っとるか。誰が誰に嫉妬するというのだ」
「先輩が、あの彼女さんに痛いです」
滝川が「彼女さんに」と言って指差した直後に、俺はその指を握ってへし曲げた。滝川は無表情で抗議の声を上げる。
「折れたらどうするんですか」
「人間、それほど軟弱ではない」
人差し指を放すと滝川は解放された指を擦りながら不満そうに唇を尖らせた。
「人を指差しちゃ駄目ってことですか」
「褒められた行為ではないな。幼少の頃によく言われただろう」
「確かにそうですけど」
彼女はそう言ってから、桃チューハイをチビチビとやりながら、妙に近い距離に並ぶ絹坂と音沢を見つめる。
「アレですね。音沢先輩は彼女に気があるんでしょうね」
「何だと。そうなのか?」
「見るからにそうでしょう」
滝川は呆れ顔で俺を見てから、空になった缶を置いて、新しいチューハイの缶を開けた。今度はレモンである。
しかし、絹坂なんぞのことが好きだとは……。
「音沢は女の趣味が悪いな」
「貴方が言いますか」
滝川は呆れ顔で俺を見つめる。
「でも、彼女、結構、男子には人気があるみたいですよ?」
「ハァ? 何でじゃ」
なんだって絹坂に人気があるというのか。あんなチンチクリンの小娘を好む奴の気が知れん。
「私は男子じゃないから、よくわかりませんが、あどけない顔立ちとか小柄なところが庇護欲をそそるんじゃないでしょうか。それに人懐っこい感じの笑顔とか、明るくて話し易いので、好意を持たれていると勘違いしちゃう男子が多いのかもしれません」
それは奴の被った猫だ。そのようなものも見破れないほど世の男どもは阿呆なのか。
呆れた気分で絹坂を見ると、奴の周囲には音沢の他、奴の仲間たち、男ばかりが集まって、やいやいと楽しげに肉を焼き始めていた。絹坂も楽しげに笑っているが、アレは愛想笑いだ。心の内から楽しいとき、奴はもっと意地悪そうな笑みを浮かべる。
偶然、絹坂と目が合い、彼女はニヤリと底意地の悪そうな笑みを浮かべて、ウインクした。
何のつもりだか。
なんだか、気分が悪くなってきたので、滝川に倣ってクーラーボックスから麦酒の缶を取り出して中身を一気に呷った。