厄病女神迷子る
「ところで、お前、何でここにいるんだ?」
ひとしきり高齢者に関する話をした後、隣でハンドルを握る絹坂に尋ねる。車の運転云々より高齢者の社会参加についてより、ずっとこっちの方が重要である。
「何でって、この車は私のですよー。先輩たちが乗ってきたんじゃないですかー」
「いや、そういう意味じゃねぇ。貴様、わかって言ってるだろ」
俺が言うと、絹坂は「ふへへへへ」と笑いながら、踏切を一時停止せず通過した。
「おぉいっ! 踏切前では一時停止しろよっ!」
「あ。忘れてました。いやぁ、うっかり」
「うっかりで済むか! お前一人がうっかりで事故るのはいいが、今、貴様の運転にはお前含めて四人の命がかかっているんだぞっ!」
「わかってますよー。ちょっとうっかりしちゃっただけじゃないですかー」
うっかりでも立派な道路交通法違反だ。警察に見つかれば捕まる。電車が来ていればぶつかる。電車に磨り潰されてミンチになんぞなりたかないぞ。
「気を付けて運転しろ」
俺の言葉に絹坂は「ふへーい」と気の抜けた返事をした。大変不愉快で不満であるが、まぁ、いい。それは、ひとまず置いておこう。
「で。何で、お前がこの旅行に参加しておるのだ?」
「そりゃあ、決まっているじゃあないですかー。先輩がいるからですよー」
絹坂はそう言って決め顔で俺を見る。頼むから前を見て運転してくれ。
「先輩のいるところならば、海の底でも山の上でも監獄でも地獄でも何処にでも私は付いて行くのですー」
「おい。待て。何で、監獄と地獄が含まれている。そんな場所にゃあ俺は一生行く気なんぞないぞ。貴様、まさか、俺が将来入りそうとか思っているわけではあるまいな」
「まぁ、それは置いておいて」
激昂する俺の後ろから薄村が口を挟む。このままでは話が進まないと判断したのだろう。遺憾ながら、確かに話は進んでいない。
「あなたは、この旅行をどちらで知ったのですか?」
「というか、絹ちゃんも倶楽部に入ってるの?」
草田が更に重ねて尋ねる。この旅行には原則として倶楽部構成員にしか参加が許されていない。
というよりも、この旅行の存在自体を倶楽部構成員しか知らないはずなのだ。あんまりにもコソコソとやっているものだから、カルト的な宗教団体ではないかと大学当局や警察にマークされたこともあるくらいだ。そういうトラブルに対応するのは大目付たる俺の部署の仕事である。具体的には大目付傘下にある公用人という役職の仕事になる。
まぁ、それはさて置き、問題は絹坂は如何にしてこの旅行を知るに至ったかである。
「勧誘されたんですよー」
「勧誘だぁ? 誰にされたんだ」
少なくとも、我が傘下である大目付配下からの勧誘ではなかろう。
というのも、秘密組織を気取るうちの倶楽部では新人の多くは基本的にこちら側からの勧誘によって加入し、構成員となるのだが、下っ端の構成員がほいほいと新人を勧誘して加入していくことはない。新たなメンバーを増やすことは倶楽部にとって重大な案件であり、少なくとも奉行クラスの幹部の了承がいるものである。
大目付傘下の奉行クラス幹部といえば、原則2名いる目付に公用人、公用人を補佐する公用人添役、勘定方に出向している勘定吟味役と公事方に出向している公事方吟味役である。これらの役に付いている者は全て俺の指揮下にあり、勝手独断に新人勧誘・加入などという不始末を起こすような連中ではない。
「延岡さんですー」
「延岡? 鍋奉行の下にそんな奴がいなかったか?」
「確か鍋方与力だったかと」
俺が首を傾げると、後ろで薄村が言った。そうだ。延岡は鍋方与力だったな。
鍋奉行とその傘下の鍋組というのは、大学内で無許可に無差別に鍋会を開催し、道行く人々に鍋を食わせる組織である。何故、そんなことをしているのかはわからん。意味が分からん。やっている連中も意味もわからずやっているんじゃなかろうか。
「ということはお前、鍋を食わされたのか」
俺の問いに絹坂は頷く。
曰くには、ある日、彼女は大学構内で迷子になっていたという。
大学の構内は広く、受けたい講義をやっている教室へ向かうだけでも新入生にとっては難儀であることは言うまでもないことであろう。絹坂が迷子になったことは理解できる。
「いやー、教室探してて迷子になったわけじゃないんですよー」
「じゃあ、何で迷子になったんだ。建物から出られなくなったとか阿呆なことを抜かすわけではあるまいな」
「先輩を探してたら迷子にー」
馬鹿なことをしている奴だ。というか、入学早々にそんなことをやっている余裕があるのか。
とにかく、そうして迷子になっている間に、偶然、鍋の現場に遭遇し、鍋を囲むことになったという。
「水炊きでしたー。薄味でしたけど、美味しかったですよー」
「そんな感想はいらん」
「でも、もう鍋は時期外れですよねー」
「連中は年がら年中鍋をやっとるぞ。真夏でも汗だくになりながら、鍋を囲んでおる」
全く度し難い阿呆どもだ。昨年の8月に火鍋を、しかも、麻辣火鍋を食う羽目になったときは、一緒に鍋を食いながら、こいつら、本気で頭おかしいんじゃないかと思ったものだ。だが、そういう馬鹿を全力でやる姿にはある種の好感を感じる。
「で、貴様は連中と鍋を突ついた結果、倶楽部に勧誘されたのか」
「ええ、まぁ、そういうわけなんですー」
絹坂はそう言ってエヘエヘと笑った。ふざけた奴だ。
「ということは、お前は幹事長の配下にいるのか?」
「そうですよー。道中方同心ですー」
同心とは概ね組織では最下層の構成員の呼び名であり、その上には与力、更にその上に組頭、奉行、頭取となっているのが一般的な組織構成である。
「ん? 道中方ということは、貴様は音沢の配下に入るということか」
道中奉行の下に組織されている道中方は今回のような旅行の企画、運営実行を担う部署であり、それらは幹事長の下に属している。
「そうですねー。音沢さんとも何度か会いましたよー」
「まぁ、そうだろうな」
俺が顎を摩りながら思案していると、絹坂が妙に気色の悪い笑みを浮かべてちらちらとこちらを見てきた。前を見て運転しろ。
「何ですかー。なんだか、不満そうな顔してますねー。あー、さては、あれですね? 彼女が自分の知らないところで交友関係をつくっているのが嫌なんしょー」
「ハァ? 貴様は何を言ってんだ」
実際、俺はそのような下らないことを考えているわけではなかった。そんな阿呆らしいことを考える余地など俺の頭のどこの隅にもありやしないのだ。考えるべきことは他にある。
「で。連中は貴様と俺の関係を知っているのか?」
確認の為に尋ねると絹坂はにまにまと気色悪い笑みを浮かべたまま涎でも垂れてきそうな声で言った。
「つまり、私と先輩が交際関係にあるラブラブカップルだってことですかー?」
「この馬鹿めっ」
吐き捨てるように言った俺の隣で絹坂はへらへらと笑っている。ムカつく奴だな。運転中でなければ拳骨の一つも見舞ってやるところだ。
「それで先輩のお尋ねの件ですがー、気付いていらっしゃらないと思いますよー。少なくとも私から言ったことはないですし、先輩との関係について聞かれたこともありませんねー」
「ほーう」
それは好都合。
「つまり、私は音沢派をスパイするのに中々良い位置に付けたといえますねー」
絹坂はきちんと己の役割を理解しているようだ。
「音沢も無能ではないからな。お前の住所と俺の住所が同じことには直に気付くであろう。俺の動静を聞いてきたときは、程々に教えてやるがいい」
「その裏で、私は音沢先輩たち幹事長組織の情報を先輩に流せばいいんですねー」
「わかっておるではないか」
「伊達に先輩の後輩を何年もやってませんよー」
俺と絹坂は揃って悪い笑みを浮かべていた。すれ違った対向車の運転手が怪訝そうな顔をしていた。
「しかし、いいんですか。そうなると、大目付と絹坂さんは大学構内で一緒にいられないような気がしますが」
後部座席から薄村が意見した。
それのどこが問題だというのだ。よいことではないか。そもそも、三年の俺と一年の絹坂では講義も同じではないし、その他の面でも一緒にいる機会は多くはあるまい。
「大丈夫ですー。その分、お家でずぅっと一緒ですからー」
「いや、お前は何を言っとるんだ」
「先輩。何においてもタダというものはありません。誰かに何かを求めるならば代償を要するものです。そうは思いませんかー?」
何だか雲行きの怪しい話題だ。絹坂の言葉に容易に同意することは非常に危うい気がする。墓穴を掘りそうな予感がする。とはいえ、今の状況では回避し難い。
「私が先輩の為に音沢派をスパイするなんていう危険な行為に手を染めるのですから、それなりの報酬といいますか、御礼があって然るべきではありませんかねー? ねー? そう思いませんかー? 私、何か変なこと言ってますー?」
絹坂はそう言いながら、ちらちらとこっちを見てくる。ウザい。俺はそれを当然の如く無視した。
とはいえ、無視したところで問題は解決しまい。後々に渡って、絹坂はこの貸しを掲げて俺に代償を要求してくるだろう。忌々しいことだ。
「あ、そーいえば、一つ問題がー」
「何だ。スパイの装備が足りないようなら、薄村に言え。盗聴器から小型カメラまで何でも揃うぞ」
「いやー。そういうことじゃなくてですねー」
俺たちの乗った車は道路の左端に停まると、ハザートランプを点けた。
絹坂は俺を見て、にっこりと笑って言った。
「迷子りました」