厄病女神の再来
携帯電話を開いて厄病女神からのメールをチェックしていると、タイミング良くというべきか悪くというべきか、八件目の電話が入った。
このまま放置してやっても、いや、着信拒否してやってもいいのだが、それでは問題の解決にはならん。問題の先送りになるだけだ。国の赤字予算編成みたいなことをしても意味があるまい。
業腹であったが、通話ボタンを押した。
「何用だ?」
「あっ! 先輩! 先輩ですかーっ!?」
電話の向こうからは間延びしてどこかぼやけたのんびり声が聞こえてくる。やはり、あの忌々しき厄病女神の声に違いなかった。
「俺の携帯に電話してきているのだから、俺が出るに決まっているではないか」
「そーなんですけどー。だってー、先輩ったら、電話してもメールしても、全然、反応返ってこないんですもーん」
どことなくぶーたれた感じの声が聞こえてくる。奴が頬をぷくーっとさせている姿が脳裏に浮かぶ。
なんだか、妙に語尾が間延びした、聞く者が聞けばイライラしてきそうな喋り方をするが、これがこいつの通常の話し方なのだ。俺は慣れた。
「マナーモードにしていて、気付かなかったのだ。それよりも、何だあのメールは?」
「何だって何ですかー?」
「色々とツッコミどころ満載だったぞ!」
「そーですかー?」
電話向こうの奴はいつもどおりの間抜け声で応じる。
「そうだとも。そもそも、ありゃ何だ?」
「ありゃ、とはー?」
「あのどんどん近づいてくるメール形式だ」
「いやー、少しずつ私が先輩へ近づいてきているってうきうきするかなーっと思いましてー。宜しくなかったですかー?」
「宜しいわけがあるまい! メリーちゃんのつもりかっ!? アレのメールの送信元が知らん番号とかアドレスだったらマジで怪談ものだぞっ!」
「メリーちゃんってー、どんどん近づいてくるって電話かけてくる人形でしたっけー? あたし、メリーちゃん、今、あなたの後ろにいるよー。とか言うのー。でも、先輩って幽霊とか信じてないんじゃなかったでしたっけー?」
信じてないんじゃなかったでしたっけーって、なんだそのヘンテコな日本語は? 国語教育の必要性をひしひしと感じながらも、今はそれは捨て置くこととする。
「勿論、信じてはおらん。メリーちゃんと言ったのは、モノの喩えだ」
俺はそーいう非科学的なことは信じないようにしているのだ。そんな伝聞でしか聞いたことのない上に、十分な科学的論証もされていない事柄をどうして無条件に信じることができようか? そんな不確かなものよりも俺は人類が何百年、何千年と学び考え蓄積してきた科学知識や物理法則、常識といったものの方に信を置く。
もし、目の前で実際にそーいった現象を目にすれば考えを改めることも吝かではないが、今までの二十何年の人生では生憎と目にも耳にもしたことがなかったからな。
と、まぁ、こんなことはどーでもいい。
それよりも他に気になることがいくつもあるのだ。俺はこーいうツッコミどころのある事柄があると気になって気になってしょうがないのだ。神経質とは、よく知人に言われることだ。
「それと、貴様は結局、駅弁を食ったのか? 売り切れてて食えなかったのか!? どっちなんだ!?」
「あー。私が食べたいと思ってた『春爛漫、春の山菜釜飯弁当』が売り切れてたんですよー。でも、鳥釜飯弁当があったので、それを食べましたー」
「じゃあ、何々弁当がなかったとか! 代わりに何々弁当を食ったとか書けっ! 相手にゃ全然伝わらんぞっ! そうだっ! 貴様は固有名詞を省きすぎなんだっ! 駅とか列車とか言われてもどこの列車だか分からんだろうがっ!」
なおもツッコミどころを一つ一つ挙げていって説明を求めたいところであったが、しかし、そうしている最中に、厄病女神が怒鳴る俺を遮った。
「それより、先輩、今、何処にいるんですかー? 部屋の中がもぬけの空なんですけどー」
「人の話をぶった切るなっ! って、貴様、今、俺の部屋にいるのかっ!?」
「はいー。だって、外にいたら寒いじゃないですかー」
電話の向こうで奴はのんびりと答えるが、それは住居不法侵入だ。れっきとした犯罪だぞ。その自覚は、まぁ、ないんだろうな。
「鍵はどーしたっ!?」
「去年、頂いたのを持ってますからー」
あぁ、そうだった。俺はがっくりと項垂れる。
去年の夏頃、こやつは、いきなり、何の前触れもなく、俺の部屋にやって来て、夏休み中、寄生生活を行い、その過程において、俺の部屋の合鍵を手にしたのだった。すっかり、失念しておった。鍵を取り替えるのを忘れておったわ。
「で、何処にいるんですかー? まさか、浮気ですか?」
「隣だ。隣」
「隣?」
電話の向こうでがたがたと何やら音がして、ドアを開く音、とことこと歩く靴音なんかが微かに聞こえてくる。
そして、こっちの部屋のドアが開く。
そこに立っていたのは、誰あろう彼あろう。ずばりというか、やはりというか、厄病女神であった。
小柄で軽く、それに見合ったミニサイズの頭部は掴んで投げられそうな感じで、たまに鷲掴みたくなる衝動に駆られる。口と鼻は小さめで、瞳は少し茶色の垂れ目。髪は短め。ほっぺがやらとぷにぷにして気持ちよく、これが、また、何かの中毒成分を含んでいるのはないかと思えるほど癖になるのだ。
年は俺よりも二つ下で、俺と同じ高校に通っていて、そこで、とある活動を行う組織でつるんでいた仲である。つまり、彼女は俺の後輩に当たる。
こいつこそが、厄病女神こと、絹坂である。下の名前は何だったっけかな。確か、コロンボとかそんな感じだ。
「あ、先輩だーっ! せーんぱーいっ!」
そいつは俺を見つけると、猪の如く、こちらへ突撃してきた。そこら中の、床に転がっているゴミだのガラクタだのを蹴飛ばしながら、飛び込むように抱きついてきた。
「ぅげふっ!?」
厄病女神の小さい頭がちょうど俺の腹部、しかも、鳩尾に突き刺さるように衝突し、俺は危うくそいつの頭の上に吐瀉しかけた。また、口の中までこみ上げたものを再び飲み干す。
「ごっくん。げっふーっ」
「んー? 先輩、どーしましたー?」
「いきなり、突っ込んでくるなっ! 貴様は地獄を見たいのかっ!?」
「何言ってるんですかー? て、先輩、息臭っ!」
「うるさいっ! 黙れっ!」
俺に一喝されても、絹坂は全く気にしない。高校時代に何度も俺に怒鳴られたせいで、すっかり耐性ができてしまったらしい。俺はどーにも短気な性質で、すぐに怒鳴るくせがあるのだ。うっかり手が出ることもしょっちゅうではあるが、まぁ、怒らせることをする方が悪いのだ。うむ。
「ところで、先輩は何してるんですかー?」
俺の膝の上に座り込んで、抱き付いたままの絹坂が小首傾げて尋ねる。
「見て分からんか?」
絹坂は俺の前にあるテーブルに載っている漫画の原稿やペン、カッター、トーンを見つめてから答える。
「なんか、漫画家のアシスタントさんみたいんですねー」
「それだ」
「あ、見たみんまそーなんですかー」
絹坂はぼんやりと呟くと、興味深そうに漫画の原稿やらを眺めたり、トーンを手にとってひらひらさせたり、ペンで紙切れに落書きをしたりし始めた。
「おい、邪魔だ。作業ができんではないか。とりあえず、膝の上から退け」
「えー」
絹坂は不満そうだ。
「そもそもー、何で、先輩がアシスタントなんてしてるんですかー?」
「それには止むに止まれぬ事情があるんだよー」
彼女の疑問に俺の背後で暫く静かにしていた奴が呻き声を上げ始めた。
細目で小柄で不健康そうな青白い肌の男。年は俺と同じ。漫画家の端くれ。名前は柚子川誠という。
「なんだ。貴様、さっさと漫画を描かねばならんのじゃないのか?」
「僕の方はもう粗方終わりだよー。あと背景入れないといけないけどー。で、君も早くやってくれなーい?」
「馬鹿を言え。貴様の仕事が粗方終わったのならば、俺の手伝いはもう必要あるまい。俺はもう吐いて寝る」
「吐いて寝るなんて言う人、初めて見ましたよー」
膝の上で絹坂が呆れ顔で呟いたので、そいつの頭を拳でぐりぐりしておく。
「ぎーぃーゃー」
「とにかく、俺はもう帰るぞ。もう十分に貢献してやったであろう」
絹坂の悲鳴を聞きながら、俺は後ろの奴に言い捨て、ついでに膝の上に乗っかっているものをその辺に打ち捨てて席を立つ。暫くぶりに体を動かすと吐くかもしれないので、ゆっくりと慎重に立ち上がった。なんとかまだ耐えられるようだ。
「えぇー。ひどーい。どーせなら、最後まで手伝ってよー!」
「では、こいつを置いていく。こき使うがいい」
「え。先輩、何言ってるんですかー? 私、今日、こっち来たばっかなんですよー。荷物の整理とか手続きとか色々あるし、先輩と積もる話もあるしー」
「んなもん、知るか」
「ひどい!」
絹坂はぷんすかと怒って、部屋から出る俺を追おうとしたが、
「絹ちゃーん、手伝ってー」
柚子に捕まっていた。
二人は、絹坂が夏休み中、俺の部屋に寄生していたときに知り合っているのだ。
「離して下さいーっ! 私は先輩とー!」
「僕のを手伝ってからでもいいじゃーん。頼むからー頼むからー。後生だからー」
ばたばたがたがた掴み合いをやっている二人を放置して、俺は柚子の部屋を出た。
その足で、その隣の部屋、つまりは、俺の自室に戻り、便所に十分ほどこもって暫くマーライオンの気分を味わってから、歯を磨いて、ベッドの上に倒れ込んだ。その後のことは意識がない。