厄病女神のドライビングテクニック
「貴様、いつの間に免許を取ったのだ?」
「受験終わってからですー。AT限定ですけどねー」
ぷらぷらと揺れる初心者マークを睨みながら尋ねると絹坂がにこにこと微笑みながら答えた。
「取ってから、えーっと、一ヶ月か二ヶ月くらい経ってますねー」
ということは自動車学校時代を含めたとしても、ドライバー歴はよくて三ヶ月かそこらしかないのだろう。
「気を付けて運転しろよ」
「大丈夫ですよー。そんな心配しなくてもいいですよー」
信号で止まったところで、そう言ってから、絹坂は「あ」と不穏な声を漏らした。
「何だ」
「ドアミラー畳んだままでしたー」
「よし、俺は車を降りるぞ」
「嫌だなー。ちょっと、うっかりちゃんだっただけですよー」
絹坂はへらへら笑いながらスイッチを押して、ドアミラーを動かした。
自分でうっかりちゃんとか言うなよ。ていうか、お前、ドアミラー畳んだままよくここまで運転してきやがったな。何を見て後方確認をしていたんだ。
「お前、普段、どれくらい運転してんだ?」
絹坂の運転技術に甚だ不安を覚えて尋ねると、絹坂は、何故か一回ワイパーを動かしてから、答えた。
「この車を買って以来毎日運転してますよー」
「この車を買ったのはいつだ」
「引き取ったのは昨日ですねー」
「それは、昨日と今日運転してるってだけだろうがっ!」
「まぁまぁ、そうやってすぐ怒らないで下さいよー」
絹坂はへらへら笑いながら言った。
「いいから、前を向いて運転しろ。このボケナスめ。この車を買う前はどれくらい運転したんだ?」
「うーん」
更に質問を重ねると、絹坂は危なっかしくふらふらと微かに蛇行するような運転をしながら答えた。
「そーいえば、自動車学校卒業してからは一度もしてなかったですねー」
「よし。車を止めろ」
「嫌ですー」
「いいから! 止めろっ! 俺は降りるぞっ!」
「降りれるもんなら降りてくださーい」
絹坂は極めて嬉しそうにニヤニヤ笑いながらアクセルを踏み込む。
くそ。やはり、こいつの顔を見た時点で、車から降りるべきだったんだ。
今からでも、多少無理をしてでも降りてやろうかとも思ったが、走行中の車から降りるなんてのはスタントマンかジャッキー・チェンにしかできんことだ。生憎と俺はどちらでもないし、己の体の虚弱さは俺自身が一番よく知っている故、止めることとした。
致し方がないので、大人しく黙って乗っていることとした。
「おい、何だ。この中途半端なスピードは、スピードの出し過ぎはいかんが、程々のスピードを出して周りに合わせないとかえって危険だぞ。それから、ちと左に寄り過ぎではないか? あ、コラ、左折するときは左後ろに注意しろっ! バイクとか自転車を巻き込む可能性があるし、横断する歩行者がいるやもしれんではないかっ! 初歩中の初歩だぞっ! まったく、貴様は周囲への注意が足らん。ちゃんと左右と後ろを確認しているのか? おいっ! 今の車線変更はいかんだろうがっ! 今、後ろ見たかっ!? 見た? むぅ、いや、しかし、危ない感じだった。大体、貴様はだろう運転的なところがある。自動車学校でもいっているとおり、かもしれない運転をだな」
「先輩。うるさい」
絹坂が俺を睨んで言った。なんと、絹坂が眉間に皺を寄せているし、普段はふんにゃりと垂れている目尻が微かに上がっているように見える。
「確かに、うるさいですね」
「いるよなー。人の運転に一々口挟む奴」
絹坂の言葉に、後ろの薄村と草田も同意する。
まぁ、確かに、少々口煩かったやもしれぬ。とはいえ、ついつい、口を出したくなる危なっかしい運転をする絹坂が悪いのだ。
「まぁまぁ、私だって、ちゃんと運転できるように昨日練習したから大丈夫ですよー」
一日練習したくらいでは付け焼刃もいいところだろう。全く安心できない。
「危うくスーパーの屋上駐車場から車ごと投身自殺しそうになりましたけどー。いやー、バックしていたら、アクセルとブレーキを踏み間違えましてー」
「貴様は耄碌したジジババドライバーかっ!?」
「あぁ、たまに、高齢者ドライバーがアクセルとブレーキを踏み間違えて事故るニュースを見ますね」
後ろの席で薄村が呟く。後部座席の薄村も草田もしっかりとシートベルトを着けていた。道路交通法云々よりも己の命がかかっているからな。賢明なことだ。
「貴様は素人マークではなく、枯葉マークをつけて運転しろっ! 素人マークでは他の車への注意喚起が不十分だっ!」
「素人マークって、若葉マークのことですかー? じゃあ、枯葉マークは高齢者用のマークのことですかー? 先輩、酷い呼び方をしますねー」
「煩い。運転素人の奴が付けているマークを素人マークと呼んで何が悪い。初心者と素人に違いなどあるまい」
「いや、そっちは、まぁ、まだいいですけどー。枯葉マークは……」
「政治家が言ったら政治問題になって辞任ものですね」
俺の発言を絹坂と薄村が問題視する。草田は欠伸をしつつ、自分の鞄を漁っている。
「何を言うか。何をどう考えても、爺様婆様連中はもう枯れておるだろうが。どこをどう見ても、明らかに枯れているだろうが。もう先は短いだろ。もう木から落ちるのを待つばかりであろうが。そーいう連中のマークを枯葉マークと呼んで何が悪いか。事実に則った表現であろう。落ち葉マークと呼んでも悪くないかもな」
「その論理だと、落ち葉ってもう死んじゃってるじゃないですか」
薄村が何か呟くが無視する。
「大体、枯葉という呼称の何が悪いのか。実際、もう枯れているんだからしょうがないじゃないか。生物は皆時間が経てば老いるし枯れていくのだ。老いるのは自然な現象であり、全く悪いことでもマイナスなことでもあるまい。誰もがいつかは老いるのだし、老いるのは自然な現象であり、これを無理にオブラートに包んで分かり難くすることに何の意味があるのか。そもそも、枯れていること、老いていることの何が悪いのか。若葉には若葉の美しさがあるように、枯葉には枯葉の美しさとかワビザビがあるもので、その様子は若々しく瑞々しい新芽とは違った良さがある。紅葉の季節に人々は大挙して枯葉を観に行くのは枯葉が美しいからであろう。そもそも、世間では、枯れていること、老いていることを過敏に悪し様に捉える傾向が強すぎる。最近じゃあ、爺様婆様を、老人と呼ぶのさえダメだと言い出す連中がいるくらいだ。高齢者だの高年者だのシニアだのと言い方呼び方単語を変えたところで一体何の意味があるというのか。呼び方を分かり難くしようとも、どう考えても、老人と若人の年齢の差というものはあるもので、それらを無視して無理に平等的に取り扱うのは無理がある。老人に若人と同じ生き方を求めるのは無理というものだ。老人には老人に合った生き方あろうし、その生き方を当人が楽しみ、生き生きと過ごせるならば全く問題はないはずだ。若人には若人の生き方と楽しみがあり、老人には老人の生き方と楽しみがある。しかして、世では老人という呼び方は宜しくないだの、枯葉マークという呼称は失礼だの何だのと、んな下らんことを言っている暇があったら、如何にして老人が老い先短き残りの人生を楽しめるかを考えるべきである。具体的にいうなれば、老人の生活しやすい環境整備と老人の社会参加が云々」
「何で、休みの日にまで、講義みてーな話を聞かねーといけねーんだろ」
後ろで誰かが何か言った気がしたが、気にせず、俺は続けるのであった。
「つまりは、老人を社会の負荷として考えるだけでなく、彼らの社会参加によって、老人が生き甲斐を持ち、自らが社会に必要とされいると感じることが云々」