厄病女神の新居
絹坂の部屋は大変シンプルというか、素っ気ないというか、モノがなかった。
間取りは俺の部屋と同じであり、まず、玄関があり、その脇に台所。その向こうに便所と風呂。部屋は二間あり、俺の場合は片方を茶の間として使い、もう一つを寝室としている。
台所には食器棚と冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、ゴミ箱が置いてある他、段ボールがいくつか放置してあった。奥の方に洗濯機。
俺が茶の間にしている部屋を絹坂も同じように茶の間にしているようで、真ん中に四角い小さな灰色のテーブル。その向かいに棚があって、その上に小さなテレビが置かれている。
もう一つの部屋には段ボールがいくつかと洋服ダンス、パイプベッドが置いてある。
それだけだった。それしかない。
「これまた、えらく閑散とした部屋だな」
そういえば、以前、地元の絹坂の部屋に行ったことがあったが、そのときも部屋は閑散としていた気がする。あまり、モノを置きたがらない奴なのやもしれん。
「んー。そーですかー?」
絹坂は首を傾げながら台所へ向かう。
「まぁ、座ってて下さいー。今、お茶を淹れますからー」
「俺は、貴様の引っ越しの手伝いをしに来たのだが?」
「まぁまぁ、そんなに焦らなくてもいいじゃないですかー。先輩ってば、せっかちさんなんですからー」
せっかちとか短気とか怒りっぽいとは、よく俺の性格を指して言われることである。自覚はしている。故に、気が向けば、少しはのんびりと急がば回れの精神を思い出し、一休みするようにしている。
というわけで、俺は大人しく絹坂の淹れる茶でも待っていることにした。
ただ、座っていても暇でしょうがないので、テレビでもつけようかと思ったが、リモコンが見つからず、代わりにテレビを置いている台代わりになっている棚の中身を眺めることにした。
その棚には電化製品の説明書やら引っ越しの契約書やら何かがてきとーにぶち込んであるようだった。後で整理するのだろう。それらに混ざって何冊か大学ノートが放ってあった。
人のノートを勝手に読むのは不躾で失礼な行為である。しかし、そのノートの表紙に己の名前が書いてあれば別である。いや、正確には俺の名前ではない。そこに書かれているのは「対先輩用料理ノート」という表題である。だが、絹坂がただ「先輩」と呼べば、それは俺のことに他ならないはずだ。
気になった俺はそのノートを手に取り、パラパラと開いて、中身を覗いてみた。
案の定というか、やはり、表題の「先輩」とは俺のことのようで、ノートには様々な食材を食べたときの俺の反応や感想なぞが細々と延々と記載され、たまにメモや思いつきが書かれていた。たまに見直してまとめているようで、俺の好き嫌いが分類・分析され、俺の好みに合致し、かつ栄養バランスの優れたメニューが考案されていた。
「あー。先輩、何見てるんですかー」
絹坂は俺が手にしていたノートを取り上げて胸に抱き、例の如く、頬を膨らませた。
「何で、勝手に読むんですかー? 恥ずかしいじゃないですかー」
絹坂はぷりぷりと怒って、ノートを近くの段ボール箱の中に放り込む。
「お前、何で、あんなもん書いておるんだ?」
「何でって、そりゃあ、先輩の好き嫌いを研究するためですよー。先輩ってば好き嫌いが多いですからねー」
「んなもん研究してどーするんだ」
「何言ってるんですかー? よく言うじゃないですかー。男を落とすには胃袋からってー」
よく言うのか? いや、よく言うかどうかは知らんが、まぁ、とにかく、料理の上手い女はモテるっちゅう話か? 美味い飯が食いたきゃ飯屋に行けばよいのではないか?
俺の疑問に、絹坂はチッチッチッと舌を鳴らして指を振る。妙にムカつく仕草だ。
「レストランとか外食には、外食の良さがありますが、手料理には手料理の良さがあるんですよー? そもそも、そんなに、毎日、外でごはんなんて食べてられないじゃないですかー。大抵の人は圧倒的に家の中でごはんを食べることの方が多いはずです。その家で、美味しいごはんを食べさせることができるかできないかで、女子の価値は大きく変わるんですよー」
そんなものか。
「それに、単純に、先輩だって、自分の好みのごはんが食べたいでしょー?」
「ん。まぁ、それはそうだが」
と、そこまで言って気付く。
「いや、待て。何で、俺が貴様の作った飯を食うと決めつけているんだ?」
「食べないんですかー?」
逆に問われて俺はとっさに反論しようとしたが、言うべき言葉が見当たらず、やむなく閉口した。
というのも、どういうわけだか、いや、どうもこうもないのだが、絹坂は何かと俺を世話したがる奴であり、俺は家事がそれほど好きではないからである。
夏休みに、こやつが俺の部屋に押しかけた挙句、寄生した際には、絹坂が率先して家事をするものだから、ついつい、俺は家事を怠け、全てを絹坂に任せてしまい、掃除も洗濯も絹坂がやり、勿論、食事の支度も絹坂がすることの方が断然多く、結果的に、俺は絹坂の作る飯をずっと食っていたのである。
ということはだ。今回、隣に引っ越してきた彼女は、夏休みのときのように、俺の世話を焼こうとするだろう。当然、料理もそこに含まれるはずである。自分がやらんでも料理が作られるとなると、俺は文句を垂れたりするかもしれんが、結局は食べるだろう。そのとき、その料理が俺の好みの味で、つまり、美味ければどうなるか。考えなくてもわかる。
「兵糧攻めか……」
兵糧を絶つのではなく、兵糧を食わせるという斬新な兵糧攻めである。
「まぁ、そういうわけでー、私が美味しいごはんを作るために日夜先輩の好みについて研究することは大変良いことじゃあありませんかー」
「うぅむ……」
俺は何とも言えなくなり、曖昧に唸っていた。
「まぁまぁ、お茶でもどうぞ」
「茶じゃなくてコーヒーではないか」
「先輩、紅茶よりコーヒーの方が好きじゃないですかー? あ、インスタントですけどねー」
俺は別にコーヒーやら茶やらの飲みものにそれほど拘りがあるわけではないので、インスタントコーヒーだろうが缶コーヒーでも構わんので、文句も言わずにインスタントコーヒーを啜った。絹坂はコーヒーに呆れるほど砂糖とミルクをぶちこんで、コーヒー牛乳をホットにしたようなものにしていた。そんなに甘くするのならば、最初からコーヒー牛乳を飲めばいい。
コーヒーで一服した俺と絹坂は、新居の片付けを行うことにした。段ボールの中身を出して、それらをあるべき場所に配置する作業を行った。とはいえ、家具と同じように、絹坂の荷物はさほど多くはなく、夕方までに片づけは終わってしまった。
その後、二人で連れ立って近所のスーパーへ買い物に行き、食材と絹坂の部屋の生活雑貨を買い込んだ。買った食材は牛肉、糸こんにゃく、長ネギ、春菊、椎茸、焼き豆腐など。
「ずばり、今夜の夕飯はすき焼きですー。日本人、すき焼き好きネー」
絹坂は長ネギを振り回しながら、似非外人風に言った。
「先輩も嫌いではないですよねー?」
俺は基本的にあまり肉は好かないが、すき焼きはそれほど嫌いというわけではない。
というわけで、俺は大人しく絹坂の作ったすき焼きを共に食した。すき焼き自体は大変遺憾ながら美味であったと言わざるを得ない。
「先輩ー。すき焼きの味は如何ですかー?」
絹坂はニコニコと笑いながら尋ねてくる。我ながら良い出来だと自慢するが如き笑顔だ。どういうわけだか、無性に腹が立ったので、何か粗はないかと鍋の中を見つめたが、残念ながら見つけることができなかった。
「先輩先輩ー。どーなんですかー? 美味しいですかー?」
絹坂は調子に乗って、問い続けてくる。
「悪くはないが、店のものには及ぶまい」
仕方がないので、悔し紛れみたいなことを言って誤魔化すと、絹坂は心底呆れた顔をした。
「先輩って本当に素直じゃないですねー」
「うるさい」
「ツンデレもツンばっかりじゃダメですよー。デレも出して下さいよー」
「やっかまいしいっ! わけわかんないこと言うなっ!」