厄病女神と引っ越し蕎麦
「お前、ちょっと、中入れ。話したいことがある」
「わー。先輩にお誘いされるなんて嬉しいですねー。キャー。部屋に連れ込まれちゃいますー」
絹坂は嬉しそうにキャーキャー騒ぎ出す。毎度毎度やかましい奴だ。
「やかましいわっ! 黙ってろっ!」
「ははーい」
怒鳴っても平然とにこにこ笑っているあたり、まったく、こいつはタダモノじゃない気がする。慣れといえば、慣れかもしれないが、しかし、高校で初めて会ったときから、俺が短気に任せて怒鳴っても結構平気そうにしていたような気がする。こいつの神経は随分と図太そうだ。長生きするに違いない。
とにかく、絹坂を対面に座らせて、俺は詰問する。
「一体全体、どーいうつもりだ?」
「どーもこーもないですよー。たーだ、お隣に引っ越してきたのが、たーまたま、かわいい後輩で、愛すべき彼女だったって話じゃないですかー」
んな馬鹿馬鹿しい偶然があって堪るか。
「おのれ、謀ったな」
「謀ったなんて人聞きが悪いですねー」
謀らずも偶然に絹坂が俺の隣室に引っ越してくるなどということがあり得るはずがない。そこには何かしらの陰謀が介在しているはずである。
まず、第一に大家である二十日先輩は取り込まれていると考えて間違いない。まぁ、あの人はビール缶一ダースでも日本酒、焼酎、ワイン一瓶で買収されるような人だからな。そもそも、先輩はこの厄介な厄病女神のことを気に入っている節がある。こいつのかぶっている猫に騙されているに違いない。
次に、隣室の前の住人である柚子だが、こいつは取り込まれたのか無理矢理追い出されたのかわからん。基本的に立場が弱い奴なので、後者であろう可能性が高い。
しかし、あの物があふれ返ってどっちらかって足の踏み場もない部屋をなんとかしたというか、できたのが信じ難いな。
「お前、よくもまぁあの部屋を何とかできたな」
「ふーふーふー。引っ越し業者を侮ってはいけませんー」
あぁ、何だ。引っ越し業者の力か。いや、まぁ、プロだしな。
「その分、かなりお金はかかりましたが、なんとかなりましたー」
「で、柚子はどこにやったのだ?」
「えーと、どっか空いている部屋に入れておきました」
俺は置き場に困った余分な段ボールの行き先を聞いているのではなく、柚子川誠という一応俺の友人と呼んでも差し支えない男の行き先を聞いているのだが。
しかし、よくもアレだけ面倒くさがりで怠惰な男を立ち退きさせるとは、どんな説得をしたというのか。
「引っ越しを奴は承諾したのか?」
「二十日先輩は喜んでOKを出してくれましたよ」
「そんなことはわかっておる。大家の許可なしに引っ越しなどできるわけなかろう。どうせ、賄賂でも渡したのであろう」
俺の言葉に絹坂は黙ってニコニコと腑抜けた笑みを浮かべるばかりだ。
あの極めて単純な御仁はアルコールを引き渡せば大抵のことはOKしてしまうからな。いつか騙されたりしないか他人事ながら心配になる。
「あの単細胞な蟒蛇先輩はさておき、柚子には何と言って立ち退かせたのだ?」
「ふぇ?」
俺の問いに彼女は小首傾げて阿呆みたいな声を出した。そして、暫しして言った。
「別に、何もー」
「はぁ?」
別に、何もーとは、如何なることか?
「貴様、柚子に何と言って立ち退かせたのか忘れたというのか?」
絹坂の記憶力がその程度だとしたら、うちの大学の入試試験は相当なザルということになりかねん。日本における学力とは、つまるところ、記憶力によるところが大であるからな。
「いえー、忘れたも何も、あー、柚子さんには、特に何も言ってないだけですー」
特に何も言ってないとは、
「貴様、無言で、無理矢理、奴を立ち退かせて別の部屋に放り込んだのか?」
「えーまー」
えーまーじゃなかろう。何という鬼畜の所業か。悪徳な不動産業者でもそんな強制的な真似はすまい。警察沙汰になるからな。
「奴は抵抗しなかったのか?」
「寝てました」
「寝てるのをそのまんま荷物と一緒に持って行ったというのか!?」
「えーまーそーですねー」
俺は驚き呆れて言葉を失った。なんと強引な。俺は普段人に同情などしない主義であるが、今ばかりは柚子に同情せざるを得ない。
「なんて奴だ……」
絹坂の顔をまじまじと見つめて呟くと、何を勘違いしたのかそいつは頬を桃色に染めて照れはじめた。
「そんな、見つめないで下さいー」
何だ。こいつ。
「あ。そだ。お蕎麦茹でましょうかー? 引っ越し蕎麦ですー。他の人にはもう配ったんですけどー。先輩とは、どうせだから一緒に食べましょうー」
そう言って、絹坂はパックに入った蕎麦を持って台所へ向かった。勝手に話を進めるな。
「引っ越しが忙しくてお昼食べてないんですよー。先輩は何食べましたー?」
「茶漬けを食った」
腹がぎゅるぎゅるで大変なことになっていたからな。それくらいしか腹に入らなかったのだ。
「えー? お茶漬けだけですかー? それだけじゃ足りないんじゃないですかー?」
確かに、それだけだと腹の足しにはなるが、夕飯まで我慢できるほどではない。具合が回復した今、腹が減っていないか減っていなくないかと問われれば、まぁ、確かに、減ってはいる。足りてはいない。
「まぁ、貴様が食うのであれば、私も馳走になっても良かろう」
「馳走になっても良かろうってー……。先輩ってば武士か何かなんですかー?」
「うちは神主の家系だ」
「どうでもいいですよー。じゃあ、お蕎麦茹でますねー。普通に冷たい蕎麦でいいですかー?」
「何でもよい」
そうして、絹坂は蕎麦を茹でて、そいつを大皿に盛り、備え付けのつゆを二つの小鉢に入れて、もりそばの完成だ。海苔があればざるそばだが面倒くさいので省略した。うちには海苔はないしな。
「長芋があればとろろそばにできたんですけどねー」
「む。確かにな。とろろとそばの相性は非常に良いからな。しかし、あれは、どういうわけだか、とろろとつゆが別々になって出てくるから、つゆの分量を間違うと、先にとろろだけ無くなってしまうということがたまにある」
「あぁ、ありますねー」
俺と絹坂は他愛もない雑談をしながら蕎麦を食った。
その後、絹坂は食器を洗い、俺はやることもなかったので、未読の本を手に取り、さて、読もうかとしたところで、食器を洗い終えた絹坂が傍にやって来た。
「そうだー。先輩ー。私の部屋に来てくれませんかー?」
「何故にだ」
何故、俺が絹坂の部屋などに行かねばならんというのか。そこにどんな意味があり、どんな効果を生むというのか。
「何故ってそんなことを聞く方がおかしいと思いますけどー。だってー、私と先輩は彼氏彼女じゃないですかー」
そんなことを言いながら絹坂はまとわりついてくる。そうだ。そういえば、そうであった。何をまかり間違ったか、絹坂は俺の彼女なのであった。遺憾である。
「彼氏が彼女の部屋に遊びに来ることに大層な理由なんていらないじゃないですかー」
まぁ、言われてみればそのとおりではあるのだが。
「貴様に部屋に行って何をするというのか」
「何をするって、先輩って、何でもかんでも理由がないと動けない人なんですかー?」
「何も理由のない無意味な行動をしたくないだけだ」
時間は限りある有限なものであるからな。人間、合理的に生きねばならぬ。つまらぬ些事に時間を取られている暇があったら本を読むなり何なりして学習していた方がずっと有意義ではあるまいか。
「んー。理由ですかー? あ、そーいえば、部屋の片づけがまだなんで手伝って欲しいんですよー」
何故に、俺が絹坂如きの引っ越し手伝いなどせねばならんというのか。かような雑用をさせようとは、貴様も偉くなったものだな。
とはいえ、俺の器たるや大洋よりも広く、チャレンジャー海溝よりも深く、天よりも高いゆえ、手伝ってやらぬわけでもない。
「彼女の引っ越しの手伝いするのに、どんだけ偉そうにするんですかー」
「やかましい。この俺が珍しく貴様の引っ越しを手伝ってやるというのだ。ありがたく思うがいい。しかし、面倒くさいし、かったるい。言っておくが、俺は今日、具合が非常によくないのだ」
「それだけ喋れれば全然大丈夫だと思いますけどー?」
俺と絹坂は互いにぶちぶち言いながら、俺の部屋を出て絹坂の部屋へと向かった。