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厄病女神の引っ越し

 その日の俺の具合は過去最悪といって差し支えのないものであった。

 腹の底からこみ上げる吐しゃ物と液状の排泄物は途絶えることを知らず、俺はいつまでも便座を温めながら、気持ちの悪い臭いを発するバケツを抱え込む羽目になっていた。このバケツの臭いを嗅ぐだけで吐きそうになる。俺が吐いているのは実はこのバケツから発せられる臭いのせいではないかと勘繰るも、それを確かめる余裕もない。バケツを床に置こうと姿勢を変えた途端に腹の底から食道を逆流する液体の置き場を求めてバケツを抱え込む羽目に陥るのだからいやはや困ったものである。

 その上、頭が痛むこと痛むこと。頭蓋骨の中に小さな人間が何十人もいてハンマーで頭蓋骨を中からガツガツ叩いているのではないかと思えるような頭痛が俺を苛む。

 あー、それから、唐突に心臓に通っている神経が一生懸命働きだしたのかと思うほど、心臓が動く度にその鼓動が強く意識される。血液がどくどくと送り出され、血管の中を流れている感覚がある。気のせいかもしれないが、あるったらあるのだ。

 頭は割れるように痛い。腹はぐるぐるいうし、吐しゃ物と排泄物は止むことがない。あぁ、それから、この間、指を紙で切ったので、そこがちっとばかし痛い。

 そのような最悪の体調を俺はもう何時間もやっていた。吐き気がどうしようもなくなって口を押えながら飛び起き便所に飛び込み、マーライオンもかくやというほど吐しゃ物を滝のように便器の中に注ぎ込んでから今度は腹痛を覚え、ズボンを脱ぐや否や液状の排泄物を吐しゃ物の上に流し込んだのが、確か四時半くらいで、それ以来、たまに、便所を抜け出してバケツを取りに行ったり、喉の渇きを覚え、水道水をがぶ飲みした以外は、ずっと便器をけつで温め続け、頭痛と腹痛に苛まれつつ、たまにうつらうつらと寝ぼけては、吐き気と便意ではっとして便器とバケツの世話になるといった状態であった。

 で、今は昼少し前である。バケツを取りに行った際に、拾ってきた携帯電話が時刻を知るのに役立った。

 ところで、何故、俺がこのような目に遭っているのかといえば、その原因は、ここ最近のスケジュールのせいであろう。

 昨年度末より、学部や学科の卒業する先輩を見送る会やら就職おめでとう会やら残念会やら何やらで、どういうわけだか、俺は尽く幹事を仰せつかり、宴会の度に、俺は、店を選び、コースを予約し、二次会をセッティングし、三次会ができる店を探し、四次会のカラオケでカードを作り、誰かの私室で行われる五次会で飲み食いする酒とツマミを調達した。飲み会では幹事という役柄ゆえ、おちおちのんびりと酒を飲み、飯を食う暇もなく、注文を店員へ伝達し、出席者各位の何が食いたい何が飲みたいという我儘を断固として封じ、二次会三次会四次会へ移動する際には、参加者連中を引率し、帰る奴にはタクシーを宛がいと、何で、俺がそこまでやらんとならんのか。俺は幼稚園の先生か。と、五次会で気炎を吐きながら、飲み食い足りない分をコンビニで調達した安いビールとつまみで満たした挙句に吐いて寝た。

 こんなことを繰り返す合間に、俺が所属する倶楽部でも先輩の見送り会やら定例の鍋会やら旅行会やらがあり、こちらでは幹事をすることはなかったが、その分、思うがままに酒を飲み、飯を食らい、飲み食い過ぎて吐いて寝た。

 それらの隙間隙間で、二十日先輩が押しかけてきて夜中酒に付き合わされたりして吐いて寝た。

 つまり、毎日、飲んで食って吐いて寝ていたわけである。手ひどく飲んだ翌日は当然二日酔いに悩まされるのだが、それでも夜になると、また飲みに出かけ、そして、吐いて朝に帰って寝て、起きて吐いて気持ち悪い思いをして、夕方には具合が少しはマシになり、夜にはまた飲みに出かける。という日々を送っていた。

 そのツケなのか何なのか知らないが、そのせいで今日は特に酷い二日酔いだった。死にそうだ。神よ。いるなら助けてくれ。俺は基本的に無神論者とまではいかないが、神とかいう奴の存在に懐疑的であるが、腹痛のときばかりは神に祈るのだ。

 そういえば、俺が便所でウンウン唸っている間、我が家に寄生している厄病女神はどうしているのだろうか?

 いつも、俺が具合を悪くして便所に籠っていると「大丈夫ですかー?」とか間抜けた声をかけてくるものである。便所から出れば水を出し、薬を出し、腹が減ればおかゆや茶漬けを出すのが奴のいつもの行動なのであるが、今日はそんな様子が全くない。

 痛む頭を宥めつつ記憶の底をまさぐると、そういえば、朝の三時頃、酔っ払ってへべれけになって部屋に転がりこんだとき、既に絹坂の姿はなかったかもしれない。出迎えられた覚えがない。寝ていたのかもしれないが、しかし、絹坂は俺が何時に帰ろうとも、起きてきて俺の世話を焼いてくる奴だったはずなんだが。

 まぁ、煩い奴がいないのはいいことだ。具合が最悪のときに、周りでうるさくぎゃーぎゃーいわれるといつも以上に機嫌が悪くなるからな。

 とはいえ、絹坂の不在に気付いたとなると、俺の具合もだいぶ上向いてきたようだ。もうとっくの前に腹の中は空になって吐くものも出すものもなく、ただ異様に酸っぱい透明な液がたまに口から出るくらいだ。


 更に幾時間か便所でぼーっとして、便所を出るタイミングを計り、なんとかかんとか便所から出ても、この間のように床に汚物をぶちまけてひどい目に遭わないで済んだ。

 部屋に備蓄している薬をがぶ飲みして、ぼんやり昼過ぎのニュースを見ていると、壁の向こうがガタガタと煩いことに気付いた。

 俺の部屋は二階の最も端であるからして、壁の向こうにある隣室は、あの阿呆漫画家の柚子の部屋しかない。となると煩くしているのは柚子ということであろう。

 これが、まぁ、ちょっと掃除しているとかモノを片付けているとかいうレベルの音であれば、あいつもついに掃除を始めたのかと感心こそすれ文句を言うほどではない。俺はそれくらいの音が聞こえたくらいでいちゃもんつけるような迷惑な人間ではない。音が頭に響いて治りかけの頭痛に拍車をかけているような気がするが。

 しかし、今回の煩さのレベルはそんなものではなかった。部屋の中に大の大人が何人も上り込んで家具から何から片っ端から動かして外に運び出しているような騒音だ。文句を言う前に、一体何をしているのかと気になってくる。更には廊下の方からも何かを隣室に運び込んでいるような音まで聞こえてくる。まるで、引っ越しでもしているようかの騒音である。

 ん。引っ越し? いや、まぁ、この時期だしな。引っ越しがあることはおかしくない。

 しかし、柚子の野郎はいつ漫画界から放逐されて失業して無職になってもおかしくない漫画家ではあるが、一応、まだ仕事は続けているようだし、引っ越しをするような理由も思い至らないし、一応、知人であり、いくらか会話はしているが、引っ越しするようなことを言っていた覚えもない。

 としても、これは引っ越しをしているとしか思えない音である。節々が痛む上に非常にだるい体をなんとかかんとか動かして、窓の外を見ると案の定引っ越し会社のマークが描かれたトラックが停まっており、引っ越し会社のバイトだかパートだかのおっさん兄さん連中が梱包された家具や段ボール箱を運び込んでいる。

 しかし、柚子の部屋の家具が出されて、引っ越しトラックから荷物が運び込まれるとは解せぬ話だ。うちの木暮荘には空室が二つはあり、新規の入居者はそこに入れるのが自然ではあるまいか。何故、わざわざ人がいるところに、そいつを追い出して、そこに入居するというのか。そして、柚子はどこへ行くというのか。

 疑問は尽きないが、今現在の俺はそんなことを確認している場合ではない。なんとか具合を落ち着けることが肝要だ。下手に動き回って吐瀉物を床にぶちまけては目も当てられない。

 というわけで、俺は隣室の騒音に顔をしかめつつ、お茶漬けを啜り食ったり、テレビをぼんやり眺めたり、シャワーを浴びたり、再び便所に籠ったりしていた。

 三時頃になって、だいぶ俺の体調は回復し、吐き気や腹痛はすっかり鳴りを潜めた。まだ少し頭痛が残っているものの、大した問題ではない。頭痛を感じるのはよくあることだしな。

 そういった頃合になると、隣はすっかり静かになっていた。いくらか前にトラックが走り去っていったのを窓から確認していたので、引っ越し作業は粗方終わったのであろう。一体、どこのどいつが隣に越してきたのか気にならないではない。そして、何故、柚子が追い出されたのかも気になるものだ。

 というようなことを考えていると、チャイム音が鳴り響いた。

 俺はピンときた。どんなに鈍い奴でもわかるものであろう。このタイミングだぞ。引っ越しが終わって一段落。早くもなく遅くもなく飯時でもない午後のちょうどよい時間。引っ越しの挨拶をするのであれば今であろう。

 人間、第一印象は大事であろう。人間関係の始まりなのだから、当然である。初対面で舐められてはそれ以降も舐められるからな。おそらく相手は今年度の入学生であろうから年上の威厳というものを見せつけてやらねばなるまい。相手が語尾に「ッス」を付ければ敬語を喋っているのだとか思い込んでおるようなチャラ男とかであったら問答無用で蹴り飛ばすくらいの勢いでいかねばなるまい。

 シャワーを浴びた後、きちっと見苦しくない服に着替えているし、顔も洗ったし、髭も剃っている。身嗜みについて問題はあるまい。一応鏡で確認してから、髪の毛を撫でつけつつ、玄関へ向かう。

 その途中、再びチャイムが鳴らされた。

「はいはい、今出る」

 思わず独り言が口を突く。

 初対面の相手に舐められぬよう気持ちいつもより余計にしかめ面をして、ドアを開けると、毎度見慣れた厄病女神の間抜け面がそこにあった。

「なんだ貴様か。何で、わざわざ俺の部屋に入るのにチャイムなんぞ鳴らすのだ。俺が追い出しても入ってくるくせに。合鍵まで持っておるのにチャイムなんぞ必要あるまい」

 俺の詰問に対して、絹坂はいつものような腑抜けた笑みを浮かべながら言った。

「ふーふーふー、それが違うんですねー」

 何が違うというのか。俺の問いかけの答えになっておるまい。前までから俺の問いかけに対する受け答えがおかしいことがあったが、ついに日本語が話せなくなってきたか。

「今日、私が来たのは、重要な意味があるのですー」

「ほう。重要な意味ねぇ」

 俺は急に痒みを覚えた手首をぼりぼり掻きつつ絹坂の話を流し聞く。部屋に戻って本でも読んでいようかな。あぁ、そういえば、今度、組織で行く旅行会のしおりをまだ読んでいなかった。明後日出発だっていうのに、まだ行き先もわからん。

「まぁまぁ、まずは、これをー」

「何だこれは? 蕎麦、と、タオルか?」

 絹坂が差し出したのはパックに入った生麺タイプの蕎麦と粗品と書かれた紙包みだ。大抵、この紙包みにはタオルが入っているのが定番であろう。

「これは、おい、まさか……」

「どうもー、今日、隣に引っ越してきた絹坂と申しますー。これから、宜しくお願いしますねー。先輩ー」

 絹坂はにまにまと満面の笑みを浮かべて言ったのだった。

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