厄病女神以外全員酔っ払い
ふと窓の外を見ると、真っ赤になった太陽が空を真紅に染めながら西へと下っていくところだったので、俺は非常に驚いた。
とはいえ、都会でもこんなにも綺麗な夕焼けが見れるのかと感慨に耽ったわけではない。そんなこと如きに心動かされるほど俺の心根は純真ではない。俺を知る者は誰もが言うものだ。心根がねじ曲がっている。と。余計なお世話だ。
俺が夕日を見て驚いたのは、ただただ単純に時間の経過を実感したからに過ぎない。
というのも、我々が厄病女神の歓迎会と称して、酒を飲み始めたときは、まだ太陽も東の空を昇り途中の午前だったというに、いつの間にやら半日が過ぎ去ってしまったことに驚愕したのである。半日をただただ酒をかっくらう行為に費やしてしまったわけだ。なんと、非生産的なことか。とはいえ、人はよく費やされた時と金を嘆くものだが、どちらも嘆こうか喚こうがどーにもならんものの代名詞だ。世の中、うまくいかんようになっているものだ。
そして、時というものは有限であり、常に消費され続けるものだ。いつまでも時間に余裕があると思ってはいけないのである。何が言いたいのかというと、つまりは、
「冴上ぇー。聞いてるのかぁーぁー?」
「ん? あぁ、何だっけ?」
「んだからなぁー。私はなー。自慢じゃないけど、モテるんだぉ」
自慢だろ。いや、まぁ、ここは大人しく話を聞いておこう。しかし、どうでもいい話っぽいなぁ。時間は限られているというのに。
「まぁ、確かに、お前はモテるだろうな。それはわかる」
「わかってくれるかぁー?」
「あぁ、わかった。わかったから、離せ。俺は便所に行きたいんだ」
こんな話に付き合っている暇があったら、便所に引き籠って色々とせねばならんことがあるのだ。
「ベン・ジョンソン?」
「何でそこで一昔前の陸上選手の名前が出てくるんだ。いや、まぁ、ちょっと語感が似てるけどな」
「んぁあ、ベンはどーでもいいんだー」
気軽にファーストネームで呼ぶな。友達か。
「それでなぁ、私はモテるんだけどなぁ。ラブレターもたくさん貰ったことがあるんだぁ。家に全部取ってらる、ある」
あぁ、そういえば、あったな。以前、こいつの家に邪魔をしたときに見させてもらったような気がする。そうだ。アレは、何故だか、俺が二十日先輩の恋文を書く羽目になったときに、参考として読ませてもらったのだったな。
「んだけどなぁ。だけど、なーんでかぁ、同性から貰うこともあるんだー」
同性からラブレターか。まぁ、わからいではないか。こやつは背も高く、どっちかというとかっこういい容姿をしているからな。いや、しかし、聞いたことはあったが、女子が女子を好きになるという現象が実際に存在したと初めて認知することになった。
しかし、何だこれ。俺は恋愛相談でもされているのか? 俺に恋愛について相談するとか、明らかに相談する相手を間違えている上に、何故、わざわざ俺なのか理解に苦しむ。
「それにらなぁ。肝心の、んわ、私が好きな人からぁ、は、貰えないんだー」
「むぅ、まぁ、皆が皆、相思相愛になれるならば、それはそれで結構なことだが、実際のところ、それはかなり難しいものだからなぁ」
「どうしたらいいと思う?」
「は? いや、何がだ?」
「話の通じない奴だなぁー」
それはお前の話し方が悪いせいだと思う。断じて、俺の理解力が足らんとかそんなわけではあるまい。
「らからっ! 私が好きな相手からラブレターを貰うにはどうしたらいいんだっ!?」
「耳元で怒鳴るなっ! うっさいわっ! 鼓膜が痛いっ!」
「しかもぉー、その、好きな相手には、もう相手がいるんだぁ。なーんでか、いつの間にかー、長い休みの間に、いっつの間にかどこかからか現れて、あれよあれよという間に、付き合っているってぇ、どういうことだ、どういうことなんだよぉ……」
そいつは勝手にぶつぶつぶつぶつ呟くと、一人で勝手に意気消沈して嘆きはじめた。一体、何が言いたいというかしたいんだこいつは。
「とりあえず、まぁ、飲め」
「ん。ろむ。飲む」
レモンの缶チューハイをそいつのコップに注いでやる。俺が酌をするというのは、極めて珍しいことであるが、此度は理由あってのことである。要するに、もっとアルコールを摂取させて眠るか具合悪くなるかさせて大人しくさせようという魂胆である。
俺がレモンチューハイを注いでやると、今まで散々俺に絡んできていた京島はぐびぐびと喉を鳴らして飲み干していく。
しかし、あれだな。普段はおとなしくて物わかりがよい京島が酒を飲んで酔っ払うとこうまで面倒くさいっつうか、やけに絡んでくる迷惑な酔っ払いに変貌するとは、まったく驚きである。もはや、人格が変貌していると言ってもいいレベルではないか。アルコールの力は恐ろしいものだな。というか、こいつは、ストレスか何かでもため込んでいるんではあるまいか? そのせいで、酒を飲むと日頃の鬱憤とかストレスを吐き出すが如く、こんなにもキャラ崩壊してしまうのではなかろうか。
「飲んらっ! 飲んらぞっ! 酸っぱいなっ!」
京島は真っ赤な顔で叫びながら、俺の脚を叩く。こいつはさっきからずっと俺の隣に座り込んで腕を組んできたり、脚を叩いたり、耳や髪を引っ張ったりと散々なことをしてくれている。
「あー、もううるさい奴だなー。ほら、こっちも飲め。巨峰だとさ。えぇと、こっちはマスカットか。白ぶどうもある。なんだ。全部ぶどうではないか。しかも、どれも量が中途半端に残っている。いいや、混ぜてしまえ」
巨峰とマスカットと白ぶどうのチューハイやらカクテルやらを全部混ぜて京島のコップに注ぐ。京島はなんだかぼーっとした顔でそれを眺めていて、全て混ぜ終わると、一気にぐびぐびと飲んでいった。大変良い飲みっぷりである。京島の顔は既にライオンがごきげんようする番組が終わったあたりから真っ赤であったが、今なお更に朱に染まり、無言で仰向けに倒れ伏した。
急性アルコール中毒などで卒倒したのであれば大変な問題であるが、様子を見るに、ただ酔っ払って眠っているだけのようなので放っておくことにした。俺は先刻から厠に行きたくてしょうがないのだ。小水や糞が出そうなわけではない。ゲロが口から出そうなのだ。さっきから何度も喉の奥に酸っぱいものがきている。何度その酸っぱいものを胃の中に押し込めるが如く嚥下したか分からぬ。
便所に向かおうと座を立って、一歩二歩歩くと、床に隣室のダメ漫画家こと柚子が転がっていて非常に邪魔だったので頭を足で軽く突っつく。
「おい、邪魔くさいぞ」
「あうあうあうあー。ちょ、ちょっとやめてよー。今、凄い頭が痛いんだからさー」
柚子は頭を抱えてうんうん唸りながら床を転がり回る。こいつは酒を飲み過ぎると頭痛が酷くなるタイプのようだ。
うんうん唸っている柚子は無視して跨いでいくことにする。人に跨がれると出世しないという迷信だか何だかを聞いたことがあるが、まぁ、漫画家には出世も何もあるまい。故に平気であろう。
どちらにせよ柚子など気にする必要はあるまい。華麗にスルーして便所へ向かったところ、使用中であった。一体、誰が入っているのか?
中に問いかければ一発でわかるところではあるが、口を開くと、声よりも先に何かが飛び出そうな具合なので、極力口を開くのは避けたいところである。故に、とりあえず、部屋の中を見渡すことにした。部屋にいない奴がトイレに籠っているということだからな。
まず、柚子は床に転がってうんうん唸っている。
京島は気持ち悪そうに寝ている。
我が後輩の清原は、未成年ゆえにダメだと固辞するところを、木暮先輩が無理に酒をちびーっと飲ませたところ、一口二口でダウンしてしまった。こちらもまた急性アルコール中毒だと困ったことだが、様子を見るに、あまり問題なさそうだったので放っておいている。しかし、ほんの少し口に含んだくらいで顔が真っ赤になって寝てしまうって弱すぎだろう。
眼鏡先輩は厄病女神にくっついてしきりとぶちぶち愚痴っていた。
「でさー。教育科学の的場って教授が、これまた、つまらねーダジャレばっか言うのさ。もうほんと何が面白いのかって呆れるくらいのを、連発するの。皆も呆れて無視してるんだけど、言うのさ。で、目と顔で反応を求めてくるわけ。面白くないって面と向かって言うわけにもいかないし、かといって、面白くもないから、まぁ、スルーするしかないんだけど、このやりとりが日に何回もあって、もう面倒くさいのなんのって、何で、こんな下らないダジャレごときに気を遣ったり居た堪れない思いをしたりしないといけないのかって話なんだけどさ」
「はぁ、あぁ、そうなんですかー。はぁ、へぇ、ほぉ」
厄病女神は明らかに面倒くさそうな顔を全面に押し出して、気のない返事を繰り返している。もう何時間も絹坂は眼鏡先輩に捕まって話の相手をさせられている。たまに俺の方を見て「助けて」的な目で見てきたが、無視した。俺は俺で、京島に絡まれて困っていたからな。その視線に「助けて」以外の何かも含まれているような気がしたが、面倒くさいのでこれまた無視した。
この飲み会の発案者であるところの二十日先輩はどうしているかといえば、先程から何が面白いのかテレビを見ながらゲラゲラ笑っている。ちなみに、テレビでやっているのはベトナム戦争のドキュメンタリーである。不謹慎にも程がある。とはいえ、二十日先輩は酒が入ると何でもかんでも面白くなってしまう御仁なのだ。お経を聞いても笑い転げかねん。
となると、トイレに籠っているのは、真下の部屋に住まう後輩女子か。名前を聞いたような気がするのだが、すっかり忘れてしまった。思い出そうとすると頭がズキズキしてしまい、思考もままならぬ。
とりあえず、トイレをノックしてみる。
「あ、はーい。えと、入ってますー」
「あー」
さて、どう言ったものか。トイレに籠っているそこそこ親しくはない後輩女子に、ちょっと吐きたいから便器を貸せ。と、如何に穏便に話すべきか。
と、その前に、自分の都合を伝えるだけでなく、まずは、相手の都合を聞くべきではないかと思い至る。そもそも、何で、こいつはずっとトイレに籠っているんだ。二、三時間くらい前に気付いたときには、姿が見えなかった気がするから、そのときからずっとトイレに籠っているようだ。
「あー、大丈夫なのか?」
「え? あー、はい、えっと、うーんっとー」
「調子悪いのか?」
「そ、そーですねー。少し。少し。はい」
口調はいつもどおりではあったが、声の調子がイマイチ具合宜しそうな様子ではなかった。
「出れそうか?」
「んー、あー、ちょっと、無理かも、しれないです……」
「そうか。ごゆっくり、じゃない。あー、まぁ、そこで休んでいなさい」
「どーも、すいません……」
いまいちあまり親しい間柄ではないので、性にもなく遠慮してしまう。これが、男か絹坂みたいな気心の知れた相手ならば、とっとと便所から出て外で吐いてろ。と追い出すところなのだがな。
さて、困ったことになった。この胸に湧き上がる液状のものをどうすべきか。心なし頭を上に向けていないとオエっと出てきそうな気がするので、天井を見て考える。
「せーんぱーいっ!」
居間の方で声がする。
「ちょっと、この人、なんとかしてくださいーっ! ほっぺた舐めてくるんですけどーっ!? わぁっ! ちょっ! やめてくださいーっ! 私の顔を舐めたりキスしたりしていいのは先輩だけなんですよーっ! あ、先輩って言ってもあなたじゃないですからーっ!」
厄病女神の悲鳴が聞こえてくる。眼鏡先輩は酔っ払うと愚痴っぽい上にキス魔にもなるらしい。それよりも、何よりも、この喉元に来ているやつをなんとかせねばならん。どこに吐けばいいんだ!? 便器は使用中と、なると、台所か? しかし、食事を作るところにそんな真似はできまい。では、どこか? ゴミ箱とかバケツに新聞紙を敷いてそこに吐けばすぐ処理できるはず。これならば被害は最小限であろう。しかし、問題はそのゴミ箱かバケツに新聞を敷く作業をする猶予もないほどに俺が追いつめられていることであり、
「わーっ! 先輩ーっ! 助けてーっ!」
あっ! やめっ! こっち来んなっ! その勢いのまま体当たりしてくるんじゃなーいっ!
「先輩ー。聞いてくださいよ。あの眼鏡の先輩ったらうぎゃあああっ!? 先輩っ!? 大丈夫ですかっ!? 生きてますかーっ!? ていうか、床が酷いことにーっ!」