厄病女神と木暮荘二階の人々
「おつまみですー」
そう言って厄病女神が差し出してきたのは、ちくわともやしとピーマンとエリンギをなんかてきとうに炒めて塩胡椒と醤油で味付けたものだった。まぁ、食えなくはない。それから、ジャガイモを薄切りにしてコンソメスープで煮込んでスライスチーズを載せた料理を出してきた。まぁ、普通に不味くない。あと、スルメがでてきた。
「先輩ー。もうこれ以上、出せませんよー」
「え。お絹ちゃんの料理レパートリー、これだけ?」
絹坂の言葉を聞いて二十日先輩が驚き半分呆れ半分の声を上げた。
これを聞いて厄病女神は激昂した。
「失敬なーっ! 私の料理のレパートリーはこんなもんじゃないですよーっ! 今、これだけしか出せないのは、冷蔵庫にこれくらいしか入ってなかったからですーっ!」
そうして頬を膨らませてぷりぷりする。だから、その頬を膨らませるの止めろ。ちょっと痛いから。
「じゃあ、まぁ、いいか」
二十日先輩は諦めてしょぼい簡単料理をつまんで、缶ビールを飲み干した。
「双葉ー」
「その名で呼ぶな」
「ビールおかわり」
「もうありませんよ」
「な、なんだってーっ!」
二十日先輩は目と口と鼻孔をおっぴろげて叫んだ。女がしていい顔ではなかった。
「もうないのっ!」
「あんたがガバガバ飲むからでしょ」
二十日先輩の悲鳴に、眼鏡先輩が呆れ顔でツッコミを入れた。
「信じられないっ! まだ始めて三〇分も経ってないのにっ!」
まぁ、元々大した数あったわけではないからな。常時部屋に缶ビールを何ダースも備蓄しておくほど俺はアルコール漬けではないのだ。
「あんびりーばぼーっ!」
「先輩。やかましい」
「ムキーッ! やかましいって何だよっ! そんなこと言うなよっ! 酒がなかったらダメなんだよーっ! まだ三〇分経ってないじゃーんっ!」
先輩はぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーと騒ぎまくった。手足をじたばたさせて大騒ぎだ。手足が無駄に長いので、かなり迷惑だ。眼鏡先輩も顔をしかめて不機嫌そうに二十日先輩を睨んでいる。眼鏡先輩も二十日先輩の酒乱に付き合わされて正直迷惑なのだろう。
二十日先輩は少々の酒でもすぐに酔っ払ってこのように大暴れ大騒ぎをして、周囲に大変な迷惑をかけるのだが、そのくせ、寝ないし、吐かないし、具合悪くもならず、ひたすら酒を鯨飲していくので、付き合わされる方は面倒くさいこと極まりない。
「どっか一人で飲みに行けば?」
「こんな時間じゃあどこも開いてないよっ!」
眼鏡先輩が突っぱねるように言ったが、二十日先輩が言い返す。まぁ、そりゃあ、まだ朝の九時くらいだからな。こんな時間から酒を出している店も多くはあるまい。そもそも、この酔っ払いを受け入れてくれる店があるかどうか。
「双葉ー」
「その名で呼ぶな」
「お酒買ってきてー」
言うと思った。そこまでして酒が飲みたいか。
「嫌ですよ」
「何でさ!?」
面倒くさいからな。とはいえ、そう言っても小暮先輩は引きはしまい。
「そもそも、朝っぱらから飲もうっていうこと自体が間違っているんです。大人しく、部屋に引き篭もって本を読むなり、テレビ見るなりしてましょうよ」
「いーやーだーもーんっ!」
先輩はまたじたばた。埃が舞うから止めて欲しいな。下の階にも迷惑かかるだろうし。下は誰だったかな? 確か後輩女子だ。後輩だから良いか。
「んなガキ臭いこと言ってないで、さっさと部屋に戻ったらどうですか? さっさと帰れ」
「帰れだとーっ!」
おっと、本音が口から漏れ出たようだ。
二十日先輩は俺を掴まえてガクガク揺さぶったり大声で叫んだり騒いだりしたが、俺はその暴挙にひたすら耐え続けた。しばらく我慢していれば少し酔いが醒めて飽きて帰るだろう。酔っ払った二十日先輩を沈静化させるには、酒を与えず、なだめすかして、酔いが醒めるのを待つのが一番だ。
そんなわけで、俺は先輩の言葉をあんまり相手にせず、てきとーなことを言ったり言わなかったりしていた。俺の経験上酔っ払いの言うことはあんまりというか殆ど相手にしなくてもいい。大抵の酔っ払いは次の日には自分が何を言って何をやっていたのかすっかり忘れているか殆どうろ覚えだし、覚えていたとしても、自分が酔っ払ってわけわからん言動をしていたことを自覚しているからだ。ただ、相手にしないと怒り出したりとんでもない言動に出る酔っ払いも出るので注意が必要である。故に、ほどほどてきとうに付き合うことが望ましい。
二十日先輩はしばらく俺に絡んだものの、中々釣れないので、標的を変えることにしたようだ。
「お絹ちゃーん。お酒買ってきてー」
未成年に酒を買って来いとか言うなよ。
「いいですよー」
「そして、お前もお気楽にOKするんじゃないっ!」
「えー。だって、お世話になる人のお願いですしー。お金さえ出してくれれば買物くらいー」
「ちゃんとお金出すよー。えーと、ビールと焼酎とワインとー、あと、おつまみかなー。一万あれば足りると思うな」
絹坂の言葉に喜んだ二十日先輩はいそいそと財布から一万円札を取り出し、絹坂に渡した。
「ダメですよ。奴はまだ未成年だし、そもそも、見た目、高校一年生っつっても通じるガキなんですから」
「別にお絹ちゃんが飲むわけじゃないからいいじゃん」
二十日先輩はぶーたれた顔でほざいた。
「いいとか悪いとかじゃなくて、あんた、コンビニのレジとかで見たことないですか? 未成年に酒類、たばこ類はお売りできませんとか。年齢確認をしますとか」
「だいじょぶだいじょぶ。んなもん、真面目にやってる店なんかないから」
それは全然大丈夫なことじゃないんだがな。道義的にも法律的にも。酒・煙草なんて若い頃からやっても何もいいことないと思うがな。とはいえ、酒も煙草もやっている俺が言ってもしょうがないがな。
「それに、お絹ちゃん、もう行っちゃったし」
確かに、絹坂の姿はもうない。奴め。普段は行動がのろのろなくせに、余計なときだけ妙に行動が迅速なのだから腹が立つ。
「ほんじゃ、双葉はさ」
「だから、その名で呼ぶなっつの」
「他の皆集めてきて」
他の皆っつと誰々のことだ?
「うちのアパートの皆さ」
「何でですか?」
何で、俺の部屋にアパートの住人を大集合させにゃあかんのだ。まぁ、こういう酒好きで騒ぐのが好きな御仁が大家をやっている故、住人たちで集めって何やかんややることはたまにはあるものの、何故、今、俺の部屋に大集合させんとならんのか。
「お絹ちゃんの歓迎ぱーてーって言ったじゃーん」
それ、まだ覚えていたのか。二十日先輩が、ただ、酒を飲みたいが為にでっちあげたてきとーな口から出任せだと思っていたのだが、中々どうしてその設定をよくも忘れずにいたものだ。そのくせ、その歓迎すべき相手を買物に行かせている辺りはどうなのだろうか。
「だーかーらー。皆で集まってお絹ちゃんを歓迎してやんだよー。ねぇ、眼鏡。いいと思わない?」
「んー? まぁ、いいんじゃない?」
二十日先輩に話を振られた眼鏡先輩はワイドショーを眺めながらてきとーに頷いた。面倒くさいからってあんまりてきとーに二十日先輩の言動に賛同したりしない方がいいと思うのだがな。
「てなわけで、あんた、皆集めてきて」
「結局本気でやるんですか」
「今更ぐだぐだ言うなやー。ほら、行って来い!」
二十日先輩に追い出されるようにして、俺は部屋を出た。全く億劫極まりないな。
とはいえ、これ以上、余計に逆らったところで、二十日先輩は翻意しそうにないし、下手に機嫌を損ねて家賃を値上げされても困る。ここは大人しく付き合うこととしよう。久々の朝から朝までコースを覚悟せねばならんな。
とりあえず、手近な隣室のダメ漫画家柚子川誠に声をかけた。
「絹ちゃんの歓迎会? 行く行くー」
柚子は簡単にOKして、相変わらずのゴミ溜めみたいな部屋を出た。
「誘っておいて何だが、貴様、漫画の締め切りは大丈夫なのか?」
「うーん? 商業のは大丈夫」
「商業のってどーいう意味だ?」
柚子の言葉の中でイマイチ意味が理解できない言葉があったので尋ねる。
「あぁ、君らが普通に読むような漫画のことさ。それは商業。で、個人的にコミケとかに出す奴は同人ね。こっちの同人誌はさー。春のイベントに向けて書いているんだけど、もう殆どアウト近いわー。印刷所の締め切りまで数えるしかないもーん。うふふー」
「じゃあ、宴会なんぞに参加している場合ではないのでは?」
「それはそれ。これはこれだよ。たまには気分転換しないとー。NTRモノだから書いててちょっとイヤーな気分になってくるしー」
NTRモノって何だ?
疑問に思い、質問したが「君は知らない方がいい。というか、知ってもしょうもないよー」と言われたので、気にしないことにした。どーせ、下らんオタク用語であろう。
「ところで、貴様の隣の横島先輩は未だに帰ってきてないんだったけか?」
「うん。そうだよー。まだ帰ってきてない」
俺と柚子は揃って二階の三号室を見つめる。この部屋の住人である横島先輩は二十日先輩よりも年上で、二十日先輩が木暮荘の大家に納まる前から住んでいた人物で、大学に入学して七年だか八年だかしているらしいのだが、ここ最近、姿を消しているのだ。噂によると富士の樹海へ行くとか北陸の断崖絶壁へ行くとか周囲に漏らしていたらしいのだが、大丈夫だろうか。少々気になる。
その向こうの二階の二号室は空室なので、素通りする。
さて、この先の二階の一号室には俺の一年後輩である清原零太郎という男が住んでいる。彼は何故だか俺に妙に懐いていて、よく話をする。
ところで、清原という名を聞いて日本人が思い浮かべるのは西武や巨人にいた某プロ野球選手のことであろう。
しかし、日本には古来より由緒正しい清原という性が存在する。
その始まりは舎人親王の孫小倉王・貞代王から始まり、かの三十六歌仙にも名を連ねる清原深養父や清少納言の父である清原元輔などを輩出した学問の家柄の清原家である。
我が後輩たる清原零太郎も、その学問の家柄の血を受け継いでいるらしい。
直系とは離れに離れ、分家を名乗るのもおこがましいほど傍系の家ではあるが、一応、その学識の家の血が彼にも流れているという話なのだ。
彼の祖父は密かに有名な歴史小説家であり、また、父はその筋では有名な国語学者であった。彼の一族は未だもって学問とかなり近い場所で活動しているのだ。
殆どの一般人が知らないようなマイナー貴族とはいえ、その血脈と名字に彼は一抹の誇りを持っている。
だが、しかし、彼は己の名字には誇りを持っているが、下の名には甚だ不満であるらしい。
何故、学識ある家に生まれた自分の名が、零点の零が付いた零太郎であるのか甚だ疑問というよりもあからさまな不満を持っていた。
「何故に、俺の名前が零点太郎なのだ?」
零点太郎などという不躾な呼び名で彼のことを言い表す者は彼以外にはいなかったが、彼は一人よく文句を言っていた。
聞くに、彼の父曰く、「零は無であり、最初から無の状況に立ち、物事を考えられる男になって欲しかった」云々という理由で「零太郎」と彼を名付けたらしいが、そんなことは彼にとっては関係ないようであった。
「百太郎。いや、九十太郎であれば、まだ良かったのに」
と、彼は意味不明なことを言っていた。百太郎はまだしも九十太郎は如何なものであろうかと俺は思う。そんな名前よりも遥かに零太郎の方がマシであると断言してやったが、彼はそれでも不満そうであった。とにかく、彼は零という字が気に食わないらしい。
前述したような己の名前に対する妙な拘りで分かるとおり、清原零太郎は奇特な男である。
そもそも、彼は勉学が好きという奇妙奇天烈極まり、万民に理解しがたい性質を持っている。
彼が小説家の孫。学者の子に生まれたから、勉学に励み、祖父親に褒められようとして勉学をしているわけでもない。
ただ、純粋に勉学に努めることが楽しいらしいのだ。特に数学が。変態としか言いようがない。
更に彼は何故か妙な正義感を持ち合わせており、バスや電車に乗れば老人子供に席を譲り、落とし物を見つければ辺りの人に声を掛け、落とし主が見つからなければわざわざ交番に持って行くような男であった。
そんな正義に溢れた男であるところの彼が何故俺なぞに懐いて、よく話を聞きに来たり、相談を持ちかけてきたり、雑談したりしたがるのかはイマイチ理解に苦しむ。
今更言うまでもないが、俺は高校時代にはさる秘密組織のトップに君臨し、学校や生徒会を体制側と呼び、それに対して色々とイチャモンをつけては、悪行の限りを尽くすという開校以来五本の指に入ると言われる大悪人である上に、今でも謎の組織の大幹部の一人として活動するような輩である。
何故に、正義を信望する彼が悪の権化と称しても差し支えないような俺を尊び敬うかは俺のみならず、彼を知る人々の多くが抱く疑問とされるところであり、その理由は聞くところによると諸説存在する。
例えば、彼は体制側から送り込まれた刺客で、実は俺の命を狙っているのだとか。
バリバリ硬派に見えて、実は男が好きな性癖で、俺の貞操を狙っているのだとか。
もしくは、秀才に見えるが、実は飛びっきりの阿呆で、思考がおかしいのだとか。
或いは、それ全てであると言われもしたが、もし、そうであったら、俺は清原との関係を大いに見直す必要性に駆られるが、今のところ、俺にとって彼は中々親しい後輩の一人に過ぎない。
その清原零太郎の部屋へ行くと、彼は朝早くから何やら非常に難しい数学の問題集を解いていた。
「貴様は休日の朝早くから一体何をやっておるのだ?」
「ある有名な数学者に問題をやっているのです」
何故、そんなことをしなければならないのか意味が分からない。
「頭おかしいんじゃないか?」
「おかしいことなんてありませんよ。前々から述べておりますが、数学はとても楽しい学問ですよ。これは」
「黙れ。それ以上、貴様の数学講釈を聞くつもりはないぞ。耳が腐るわ。俺は大学受験が終わったその日から数学なんぞとは縁を切っているんだ。足し算引き算掛け算割り算と小数点と分数の計算が分かれば事足りるわ」
「いえいえ、関数とか方程式を日常生活に利用すれば、」
「やかましい。黙っとれ」
清原は不承不承ながらも言われたとおり黙り込んだ。この点、どこぞの厄介な後輩よりもずっと扱い易い。
「まぁ、良い。貴様が休みに何をしようがそりゃ貴様の勝手だ。が、少々、その勝手を邪魔することになる」
「どういうことですか? というか、先輩。お酒の臭いがしますが」
清原は顔をしかめた。ふむ。缶ビール二缶くらいでもやはり酒の臭いはするものか。
「まさか、朝から飲んでいるんですか? あまり感心しませんね」
「貴様が感心するか感心しないかなぞどーでもいい話だ。問題は、この飲み会が二十日先輩主催による全員参加の行事だということだ」
俺の言葉を聞いて清原は呆れめたように溜息を吐き、数学の問題集を閉じた。
「なるほど。分かりました。参加しなければ厄介なことになるということですね」
二十日先輩に抗うことは無理だということは木暮荘に住人全員の共通認識なのだ。
「うむ。すまんな」
「いえ、先輩のせいではないですから」
こうして、木暮荘二階に住まう仲間二人を俺の部屋に送り出し、俺は一階へ向かった。