厄病女神とうわばみと眼鏡
「後輩ー。後輩ー。一緒に酒を飲もうぜー」
俺が顔を洗っていると、聞き慣れた大声が無遠慮にも俺の耳の中に飛び込んできて、鼓膜を損傷させんばかりに震わせた。
一瞬、何事かと思ったものの、一秒後には何事か理解したので、心を落ち着け、洗顔を継続した。
「あらー。女の子がいるわー」
「あー。お久しぶりですー」
「誰? このちっこい娘っこ」
洗顔を続ける俺の耳に聞き慣れたでかい声と絹坂の声と少し聞いたことがある声が飛び込んでくる。全部女の声だ。いつからここは女の巣窟と化したのだ。
「冴上はー?」
「先輩なら、そこで顔洗ってますよー」
でかい声の問いかけに絹坂は素直に応じ、俺の居場所を密告する。こいつ、俺のいうことなんぞちっとも聞かないくせに、どーしてこういうときだけ、素直ぶるんだ。
どかどかと無遠慮な足音が近づいてきたので、顔に水をかける作業を終え、顔を上げる。
「よおっ! 一緒に酒盛りしよーぜー」
にかにかと太陽のように輝く笑顔でそう叫んだのは、セミロングの黒髪に、きらきら輝く大きな瞳を持ち、一七〇cm少しという長身で、とても立派なスタイルを誇る先輩である。彼女のことを俺はもう嫌なくらいよく知っている。俺が大学通学中の住処と定めている木暮荘の大家であるところの木暮二十日先輩である。
俺の遠い親戚だか知人だか何だかに当たるらしく、俺をかなりの割安で木暮荘に住まわせて頂いている。つまり、かなり世話になっている人ではある。が、ここは言わせてもらおう。
「はぁ? あんた、何言ってんだ?」
「おぉぉいっ! ちょいちょいちょーい!」
何だこの反応。何で、顎出してるんだ? この人。
「え? わかんない? ちょっと前にちょっと流行ったネタなんだけど」
「何のネタですか?」
「あの、なんていうか、あー、なんとかっていうお笑いコンビがね」
暫くそのネタの解説を聞いたがどんなに詳しく説明されても「あぁ、そう」以上の反応をすることはできず、俺は、ただ、早く顔を拭かせてくれと思っていた。
「で、結局、何しに来たんですか?」
「だーかーらー、酒飲もうってー」
「はぁ? 何でですか?」
「酒を飲むのに理由なぞいらん!」
そう宣言する二十日先輩の口からは激しく酒の臭いがした。まぁ、このザルとかうわばみとかミス酒豪とか云われる二十日先輩から酒の臭いがしないことはないというほど、この人は呆れるほど酒が大好きなのだ。いつか肝臓かどっかを痛めて死ぬと思う。
「まぁ、酒を飲むのに理由はいらないっちゃあいらんのは分かりますがね。しかし、今からですか?」
「今から! ここで! 今すぐ!」
二十日先輩は酔っ払い特有のハイテンションで叫び、大笑いする。
しかし、そんなことを言われても困る。大学は春休み期間中ゆえ、講義等があるわけではないし、本日は特に予定や用事があるわけでもない。だが、しかし、しかしなぁ。
「こんな朝っぱらからですか? 今、八時少し過ぎなんですが」
「歓迎ぱーてーだよ。歓迎ぱーてー」
ぱーてーって何だ? あぁ、パーティーのことか。てか、何のぱーてーだって? 歓迎? 何をだ? 新学期をか?
「お絹ちゃんの歓迎ぱーてーに決まってるじゃん」
何だって、絹坂が俺の部屋に寄生しに来たことを歓迎しなきゃならんのだ。それに、絹坂が俺の部屋にいるのは、奴の部屋の都合がまでの暫定的な措置だぞ。去年の夏休み中にいた期間よりもはるかに短く、あと数日もすれば、いなくなるという奴の歓迎なんぞを何故にしなければならんのか。
とは思うものの、どうせ、二十日先輩の思惑は、ただ単に飲む口実が欲しいだけなのだろう。
そもそも、先ほど「久しぶり」と挨拶していたところから見て、二人が顔を合わせるのは夏休み以来なのだろう。そのことから考えても歓迎ぱーてーとやらが口から出任せであるのは一目瞭然である。
「嫌ですよ。面倒くさい」
「ほー。嫌かい」
俺の言葉に二十日先輩はじと目で俺を睨む。そんな目で見てもダメだ。
「嫌ですとも」
きっぱりと断ってやる。先輩なぞの圧力に屈する柄ではないのだ。年上への敬意は社会的常識として当然ではあるが、不当な命令や指示、圧力なんぞに屈する必要は全くもってないのである。
大体、俺は先週まで連日怒涛の飲み会ラッシュで、飲んで吐いて寝て飲んで吐いて寝てを繰り返していたのだ。もう暫くの間、酒は見るのも嫌だという気分になのである。いくら、世話になっている先輩の要請とはいえ、酒はもうこりごりなのだ。
二十日先輩は暫く俺をじとーっと睨んでいたが、やがて、口を開いた。
「……君、来月から家賃二倍ね」
「絹坂ぁっ! さっさと酒とつまみを用意せんかっ!」
「先輩……」
何だ。その何か言いたげな呆れ顔は。何で、私、この人のこと好きなんだろうとか疑問に思ってるような顔だぞ。そんなことはどーでもいいから、さっさと歓迎ぱーてーの準備をするのだ。
「いやー。うちの後輩は話が分かる奴で助かるなー」
おのれ。俺の弱味につけこみやがって。なんと卑劣な。鬼だ。悪魔だ。
酒とつまみの用意を絹坂に押し付けて、俺は茶の間に戻った。テーブルには既に二十日先輩ともう一人が席に着いていた。その一人というのは先輩に連れられてきた先輩ほどではないが、やはり背の高い女で、長い茶髪で眼鏡をかけている。彼女も木暮荘の住人で、二十日先輩と同学年であり、友人であるそうだ。木暮荘で日常的に飲酒を嗜むのは二十日先輩を除けば俺と彼女しかいない為、俺同様よく二十日先輩の酒に付き合わされる身である。
俺自身とはあまり付き合いはなく、ただただ二十日先輩と飲むときに、たまに居合わせるだけの間柄だ。その為、飲みの場では結構喋るのだが、あまり良く知らなかったりする。二十日先輩が彼女のことを眼鏡と呼んでいるので、俺はなんとなく、眼鏡先輩と呼んでいたりする。
「冴上君。あの娘っこは誰なのさ?」
その眼鏡先輩は絹坂を指差した。
眼鏡先輩は去年の夏休みの間、自分探しの旅と称して軽自動車で日本一周を企んだ為、木暮荘におらず、よって、絹坂とは今日は初対面なのだ。
「アレはうちに寄生する厄病女神です」
「何ソレ? 厄病神?」
「女なので厄病女神ですな」
「ふーん」
眼鏡先輩は分かったような分からないような感じに頷くと、ちょうど、冷蔵庫に入っていた缶ビールを持ってきた絹坂に声をかけた。
「ねぇ。君、名前は?」
「絹坂衣ですー」
あぁ、こいつは衣って名前だったか。コロンボかコロンブスに似ているはずだと思っていたが、遠からずであったか。というか、ほぼ正解と言って良いに違いない。違うところといえば刑事でも航海士でもないことくらいじゃあないか。
「君、冴上君の彼女?」
二十日先輩が早速缶ビールを開けた横で、眼鏡先輩がのんきに尋ねた。
当然、俺は不機嫌に顔をしかめる羽目になる。
「そうですー」
そして、当然の如く絹坂はにこにこ笑いながら肯定するわけだ。
俺は殊更不機嫌そうな顔をして、缶ビールのプルタブを開けた。最近、このプルタグを開け過ぎているせいか指にタコができている。クソッタレ。