共進塾
結局祐介は「共進塾」への道を歩いていた。宏香は遠慮しているのか、半歩後ろから速度を合わせてついてくる。どんな顔で彼女を見ればよいのかわからなくなっていた祐介にとって、それはある意味都合がよかったのだが、視線を感じる首筋がちりちりと痒い。控えめな彼女がどんな集中力をもって自分の後ろ姿を見つめているのか、どうしても想像してしまう。こんなとき、モテる奴ならさっと隣に回って手を取ったりするのだろう……などと考えて情けなく思いながらも、振り返ってその顔を確認する勇気すら祐介にはなかった。か細く高い声を背中で受けながら、祐介は前を見て歩く。春なのに指先が冷たい。
宏香は素っ気ない祐介にめげることもなく話し続ける。減っていく祐介の口数と反比例するように宏香は饒舌になった。流行りの曲、最近見た動画、もうすぐ始まる中間テスト。選ぶ話題はそんな平凡で軽いものばかりだ。時折混じる笑い声は朗らかで、吐息を含ませたような繊細な響きがある。もっと聞きたくなるような、それでいて逃げ出したくなるような切なさに、祐介は機械的に相槌を打つのが精一杯だった。しかし、宏香の言葉から意識がそれると、祐介の脳はつい先ほど聞いた「デート」という言葉をこだまさせ、その言葉を投げかけた時の宏香の悪戯っぽい笑みと紅潮した頬が思い出される。
これはついに自分にも彼女ができるということなのかもしれない、と祐介は思った。実際、道行く人々からは、既に二人は恋人同士に見えているだろう。尤も、宏香はデートに誘っただけで、祐介が好きだとも付き合ってほしいとも言っていないので、ここは自分が男らしく出るべきかと思案する。
「どうしたの、そっちは山だよ」
ふいに腕を掴まれて、祐介はゴム人形のように飛び上がった。反射的に宏香の顔が目に入る。交わった眼差しは情熱的でも恥ずかしげでもなく、ただ優しく祐介を見守っていた。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「そんな気はしてた。変なところで相槌打ってたもんね」
「悪い……」
「いいよいいよ、私が急に誘っちゃったんだし」
手をぱたぱたと振って恐縮してみせる宏香の姿に、祐介は浮かれすぎていたと反省した。必要以上に意識してしまっていたが、今は宏香の家の怪異ついて綾乃に相談しに行く道中だ。宏香が一人で喋り続けていたのは不安の裏返しであり、本来恋愛だなんだと考えている場合ではなかった。そろそろ駅も近い。祐介は地図アプリを起動して「共進塾」を探す。
「駅の真ん前だな。1時限目かもしれないし、直行するか」
「二ノ宮さん、会えるかな……よく考えたらどの授業出てるのかわかんないし……」
「塾なら時間割くらい壁に貼ってあんだろ。見つかんなきゃ1年ぽい奴に声掛けて聞けばいい。あいつ有名人だからな」
塾につくと、想像以上に張り詰めた空気が二人を迎えた。受け付けは静まり返っていて奥の事務エリアのタイピング音がよく響き、行き交う学生には笑みがない。その理由は壁一面に貼られた合格実績が物語っていた。
「有名大学ばっかりだね……」
「成績も貼りだされてるのな。完全な競争社会ってことか」
思わず息で会話する二人に、周囲の視線が突き刺さる。
「とりあえず時間割確認して一旦出よう。俺たち明らかに場違いだ」
二人が時間割を探して目を泳がせていると、もっと場違いな明るく大きな声が響いた。
「おや? そこにいるのは部長じゃないか!」
祐介と宏香は同時に振り返る。宏香と同じセーラー服の少女が、無邪気な笑顔で手を振っている。
「君も入塾した……はずがないな。放課後の君は勉強している様子がなかったし、この塾に通うなら1年からが普通だ。まさか、私に会いに来てくれたのかい?」
相変わらず野暮ったいツインテールが嬉しそうにぴょこぴょこと揺れる。
「とはいえ、私を探すなら一人で来ればいい。私に用事があるのはそっちの女性の方だね。部長が女性とつるんでいるという話は聞かないから、きっとあの新聞を読んで部長に声をかけたのだろう。オカ研の助けが必要な事態、それも明日の昼を待たずに塾まで押しかけるような緊急事態が起こったということだ。一体何があったんだい?」
祐介は傍若無人な綾乃と落ち着かない宏香を見比べてため息をつく。こんな塾に通い、祐介たちの来訪の理由まで推測して見せる綾乃は高い知能の持ち主なのだろうが、先輩が二人で来ても敬語を使わず、他人の緊急事態に対しても楽しそうに目を輝かせる彼女には「人として最低限のこと」も備わっているとは思えない。綾乃を早々に見つけられた安堵よりも、こんな輩を頼らねばならないことへの屈辱感の方が勝っていた。
「えっと……二ノ宮、さん?」
「そう、私が二ノ宮綾乃だ。」
「はじめまして、鈴木宏香です」
「敬語じゃなくて大丈夫だよ、鈴木先輩。私はただの一年生だからね。さて、ここで話の内容を聞きたいところなんだが、私はもうすぐ授業があるんだ。一コマだから、小一時間どこかで待っていてくれないか?」
見計らったようにチャイムが鳴る。綾乃はくるりと踵を返すと、奥の教室へと歩みを進めた。
「じゃあ先輩がた、デートを楽しんで」
祐介にも宏香にも、返すべき言葉はわからなかった。