お化け屋敷
彼女の名は鈴木宏香と言った。祐介が自分を認識していないことを察しても、さして不快感を表すこともなく、色素の薄い顔にはひたすらに悲愁が浮かんでいる。
「場所、移そうか」
周囲の視線が気になった祐介は、宏香を促して廊下へと出た。あえて立ち止まらず、休み時間のざわめきの中を肩を並べて歩く。しばらく様子を窺っていると、宏香は切り出した。
「新聞、読んだよ。オカ研ってどんな活動してるのかいまいちわかってなかったけど、すごいんだね。近所の心霊スポットの原理を解き明かしちゃうなんて」
「心霊スポット……あのトンネルのやつか」
綾乃の書いた記事は二つあった。ひとつはオカ研の歴史と今後の展望を述べた概説のようなもの。もうひとつは月岡高校の近所で有名な心霊スポット、通称「幽霊トンネル」が本当に心霊スポットなのかを検証したものだ。綾乃はまず目撃される幽霊の姿と行動パターンが一定しないことを指摘し、目撃者が全員同じものを見ているわけではないのではないかと問題提起した。続いて目撃証言がトンネル入口付近に偏っていることを割り出し、トンネル入口に幽霊出現の原因があると言及。最終的に複数の類似事例を引っ張り出し、霊現象の原因として低周波の可能性を提示した。19Hzの低周波が人間に幽霊のような幻覚を見せるのだという。
「大したもんだよな。理路整然としてて、読んでて説得される感じがした」
「川島君はあの記事の担当じゃなかったの?」
「担当どころか、あの新聞には完全にノータッチだよ。全部新入部員が書いたんだ」
「1年の二ノ宮さんだよね……やっぱり頭いいんだね」
宏香は少し微笑む。尊敬とも羨望ともつかない微かな笑みだった。祐介は宏香が知らないだろう身だしなみの汚い傍若無人な後輩のことを思い浮かべ、頭の後ろを掻く。
「というか、結局何の話なんだよ。助けてほしい、って言ってたよな」
「うん……」
胡桃色の瞳がゆっくりと祐介を見上げる。二人は自然と足を止めた。先ほどまでうるさかった生徒たちのさざめく声が、ふいに遠ざかる。
「私の家、今大変なことになってるの。まるで家がお化け屋敷」
「は?」
「うん、わけわかんないよね……でもそうとしか言いようがないの」
祐介を見つめたまま、宏香は瞳を潤ませる。
「はじめはちょっとした違和感だったんだ。家の雰囲気が妙に重苦しいというか、とにかく嫌な感じでね。それがだんだん、何かの気配を感じるようになって……私は気のせいだって思い込もうとしてたんだけど、この間、お母さんが突然悲鳴を上げて。どうしたのっていったら、知らない男が居間を横切ったっていうんだよね」
「知らない男が、家にいた? お前は見たのか?」
「その時は何も……でも次の日私も見ちゃったの。真っ白い顔で濃い隈のできた、ホラー映画の幽霊そのものみたいな男が、隣の部屋からこっち見て笑ってた。笑顔をあんなに気持ち悪いと思ったのは初めて」
じわ、と虹彩がぼやけ、光の粒が頬を伝う。小さく上下するセーラーの襟。荒くなる呼吸が会話の邪魔をする。祐介は反射的に手を伸ばそうとして、やめた。
「それで、お母さんと二人でお父さんに泣きついたら、お父さんも見たって。とりあえず神社にお願いしてお祓いしてもらったんだけど、さらにひどくなっちゃった」
「さらにって、何があったんだよ」
「窓一面に貼ってあったの。『殺す』って書かれた紙が」
宏香は震える手でポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出した。何重にもなぞられた奇妙な金釘流で、確かに「殺す」と書かれている。祐介は掛ける言葉も見つからない。男の影を見ただけなら幻覚や白昼夢で片づけられそうなものだが、物的証拠があるとなれば気のせいだと宥めることもできない。華奢な手で濡れた顔を覆い、いよいよしゃくり上げる宏香は、それでも懸命に話を続ける。
「神社のお祓いじゃダメだったってことで、今度はお寺に頼んだの。でもね、今度は玄関のドアに直接書いてあった」
「神社でも寺でもダメ、か……手強いな。でも俺たちに……」
何ができるんだ、と言いかけて口を噤む。祐介は霊能力も持っていないし、有名な神社仏閣へのコネもない。しかし、恐怖でいっぱいの宏香に、自分たちの無力さを示すわけにはいかなかった。
すると、意外な言葉が続いた。
「オカ研の新聞を読んで、川島君たちにお願いするしかないと思ったの。川島君たちなら、これを『心霊現象じゃない』って、言ってくれるんじゃないかと思って」
「え、否定してほしいのか? これだけ明らかな霊障を?」
驚く祐介に、顔を覆っていた手で鼻の先を擦りながら、宏香は答える。
「家族全員が姿を見て、紙まで残ってる。それがお化けの仕業ならたしかに怖い。でも私が本当に怖いのは……」
「……お前たちが見た男がもしも実在の人間だったら、ってことか。なるほど」
祐介は唸った。幽霊より宇宙人より、実害のある人間は一番恐ろしいものだ。変質者が家に潜んでいるとしたら、いつ何があってもおかしくはない。思った以上に急を要する問題であると言えた。
「お寺のお祓いが失敗したとき、私は警察に言おうって言ったんだけど、お父さんもお母さんも聞く耳持たなくて……そのあとも色んな人に色んなお祓いをお願いしてるんだ。霊能者とか、イタコとか。でも全然良くならないし、お金はいっぱい持っていかれる」
「カモられてるってことか」
「うん。そのうち変な宗教とかに手を出しちゃったりしたら、それも怖い……」
親とは往々にして子供の主張に耳を貸さないものだ。いつだって自分たちが正しく、教え導く立場であると信じている。故に、自信をもって間違った道を歩み始めた場合、子供が引き返すよう働きかけることは困難だ。祐介は考えあぐねた。昼休み終了のチャイムが鳴る。
「とりあえず、二ノ宮を交えて放課後また話そう。まじでお前の家に誰か住みついてるなら、対応は速い方がいい」
「ありがとう。川島君、優しいんだね」
微笑む宏香の頬はもう乾いていたが、祐介を見つめる胡桃色の瞳は、何故か潤んだままだった。