顧客
綾乃の入部はすぐに学内で知れ渡ったらしく、祐介は数人の友人から、よかったな、と声をかけられた。中には「二ノ宮のお嬢様」とふたりきりであることを羨ましいと揶揄う者もいた。祐介は適当に受け流した。綾乃を直接知らなければ当然の反応でもあるし、この月岡という町で二ノ宮の人間を悪しざまに言うことは得策ではない。そのつまらない受け答えの甲斐あってか、綾乃の名は数日で話題に上らなくなった。
最初は綾乃がいつまた押しかけてくるかと身構えていた祐介だったが、彼女は本当にほとんど部室に来なかった。意外にも約束は守る性質なのか、あるいは単に部室になど用がないのか……いずれにせよ、祐介は次第にこのもう一人の部員の存在を意識しなくなり、再び気ままな放課後を満喫できるようになったというのが実際のところである。スマホの充電器が差しっぱなしのコンセントや、流行りの漫画が増えた本棚は、部屋の主の極めて一般的・現代的感覚を表していた。オカルトにのめりこむ純朴な変わり者たちの集いの場としての役目を、この部室はとうに終えたのだ。オカ研はもはや機能していない。多少出自の良い新入部員が来たところで変わることはない。それは当の祐介を含め、月岡高校の誰もが感じていることだった。
しかし評価とは往々にして思い込みに依拠するものだ。皆、寂れた部室の裏で綾乃が何をしているか知らなかった。だからこそ正当な評価を下すことができなかったのである。
5月の半ば、最初の来訪から一月ほど経って、綾乃は部室にやってきた。
「やあ部長、お邪魔するよ。印刷機を使わせてくれ」
久しぶりに響き渡る陽気な声に、祐介は眉を顰めつつ、彼女が新聞の印刷で部室を使うと言っていたことを思い出す。
「もう新聞ができたのか。本当にひとりでやったんだな」
「いや、完全にひとりとは言い難いな。取材と執筆は私だが、レイアウトは新聞部にかなり助けてもらった」
「新聞部に?」
「ああ。よく考えたら、新聞を発行するといっても私は紙面デザインについての知識が全くなくてな。独学で学ぼうかとも思ったんだが、毎回似たような内容で、かつ卒業後は編集にかかわることもほとんどなくなると考えると、聞いた方が早い。活動中にお邪魔して、気にするべきポイントが知りたいと言ったら、皆で快く教えてくれたよ」
綾乃は上機嫌で鞄から原稿を取り出す。祐介は思わず覗き込んだ。すっきりとした紙面に並んでいる活字は大きすぎも小さすぎもせず、読みやすい。無意識に冒頭から読み始めている自分に気づき、へぇ、と声を上げた。
「よくできてるな」
「だろう? やはり餅は餅屋だ。しかも、オカ研が新聞を始めたことを記事にしてくれるらしい。本校の新聞部は懐の深い良い集団だね」
話しながら読み進めて、祐介は気づく。
「主語が『我々』?」
「当然だろう。この新聞は私個人ではなく、オカ研が発行しているものだからな」
「いや……俺は何もしてない……」
「なに、気にすることはない。作業には関わっていなくとも、弱小部の唯一の仲間じゃないか」
「変な気の遣い方するな……てか、実績にしたいんじゃなかったのかよ。お前の名前で出せばいいのに」
「オカルト探偵として、本名で活動するつもりはないんだ。それに、この新聞は画像ファイルにしてSNSにも載せるからな。個人情報はまずい」
言われてみれば綾乃だけでなく、祐介の名前も出ていなかった。高校の名も伏せられ、紙面から読み取れる情報は「オカルト研究部が発行している」ということのみ。
「よかった。いつの間にか巻き込まれていたのかと思ったよ」
「その点は大丈夫だ。書かれていることについて問い合わせがあれば、私が対応する。君は引き続き部室で漫画でも読んで、何かあった時に責任をとるだけでいい」
「……は?」
ほっとするやいなや掛けられた不穏な言葉に、祐介は固まった。
「かなり推敲もしたから、そうそう問題も起こらないとは思うがな。私も初めての経験だ。保証はできない」
「保証はできないってなんだよ! つか、なんで俺が責任とるんだよ、何もしてないのに!」
「君は部長だ。部を背負って立つ覚悟くらいしておいてくれ」
「まじかよ……」
突然降ってきた部長としての重い役割。役職などついたこともない祐介には、学生が何をもって責任をとることになるのかよくわからなかったが、今まで避けてきた方面の道であることには間違いない。
「新聞の反響が心配なら、来月以降は一緒にやるかい? 自分の作ったものの責任をとる分には抵抗もないだろう」
「いや……それは……」
「だったら腹を括るんだな。それに、保証できないとは言ったが、問題視されやすい政治的主張や差別表現なんかには十分注意している。唯一の仲間をもう少し信頼してくれ」
悪びれもしない歯を見せた笑顔に、祐介はただ深く溜息をついた。野暮ったいツインテールが満足げに揺れ、原稿を回収して遠ざかる。動き出す印刷機の音。夕日の差し込む部室の隅で、オカ研初の新聞は完成した。
翌日、新聞は各所に掲示された。祐介は直前まで誤解していたが、公的な配布物と異なりあくまで部活動の一環なので、各生徒に配られるわけではないのだ。おかげで反響はなかった。翌々日、その次……何日経っても話題にならない。祐介に関するニュースがあれば必ずからかってくる友人たちも、どうやら新聞の存在に気づいてすらいないらしい。
綾乃も部室に姿を表さなくなった。きっと校外でフィールドワークをして、誰にも読まれない新聞の第二弾を作るべく奔走しているだろう彼女のことを思い、祐介は尊敬と軽蔑の入り交じった奇妙な感覚を覚える。自分にはできない、それがいいことなのか悪いことなのかは別として。
――しかし、事態は動いた。それは6月にはいってのことである。
「川島君、ちょっといいかな?」
昼休み、教室で祐介に声を掛ける女子の姿があった。小さな声。華奢な体躯。肩までの暗めに染めた茶髪と、そばかすを必死に隠した形跡を感じる色味のない薄化粧。身を飾るのではなく、目立たないために整えているという印象の彼女は、記憶の限り今まで話したことはなく、名前もうろ覚えだった。
「え、何……?」
祐介は狼狽する。珍しい取り合わせ、しかも男女ということで、そこかしこから集まる期待を込めた視線。普通の男子高校生なら告白かと舞い上がっても仕方ないところだが、祐介には彼女が好意をもって近づいてきたとは思えなかった。自分から声をかけた割に、切れ長の瞳は伏し目がちで祐介を捉えておらず、頬には笑みも浮かんでいない。細い指先を擦り合わせ、何度も言葉を絞りだそうとしては飲み込んでいる。増える視線の中で、しばらく沈黙が続いた。
「忘れ物? 伝言?」
いたたまれなくなった祐介は、細心の注意を払って対話を試みる。
「それとも俺、なんか悪いことした? 多分あんまり関わりないと思うんだけど……」
彼女は俯いたまま、ううん、と消え入るような声で言う。
「じゃあ何?」
祐介は引き攣った笑顔で問いつつも、既に理解していた。忘れ物でも、伝言でも、謝罪要求でもない。他に自分に声を掛ける理由と言えば。
「川島君、オカ研の部長だったよね」
「……一応、そうだけど」
彼女はようやく顔を上げ、泣きそうな顔で祐介を見据える。そして言った。
「助けてほしいの」