9話目 受け取ることのできない伝言 前編
しとしとと降り続く雨は、静流のいるこの小部屋にも風と共に湿気を運ぶ。
その湿気が案外不快ではないのは、ひとえに外の気温が上がりきっていないからだろう。
これで気温まで上がっていたら、静流は扇風機しかないこのカウンターのある小部屋から撤退して、居間で涼むことになっていただろう。
湿気はあるものの扇風機があるこの勝手口に張り付くように作られた小部屋で、静流は来るともわからないヒトを待っている。
このボランティアにどんな意味があるのか、静流にはまだわからない。だが、従姉妹が続けている以上、静流はその手伝いをするつもりではいる。
伝言を預かってほしいと来るヒトがいるのもまた事実で、そのヒトがいる限りには、お人好しな静流は、形ばかりでも伝言を預かって来るヒトを安心させたいと思ったのだ。……たとえ形ばかりでも。
そう心を決めた静流は、またカウンターのある小部屋でヒトを待つようになった。
だが今日は誰もまだ来ておらず、もうすぐ六時を過ぎる。今日の天気では何時までを明るいと表現していいのか分からなかったが、晴れていればまだ明るいはずだ。
今日は従姉妹が飲み会らしく、静流は夜ご飯に駅前に昨日新しくオープンしたハンバーガーショップに行こうと決めていた。
生憎の雨だが、友達から美味しいと情報をもらっているので、決意は固い。
以前であれば、行くのを躊躇していただろう。それは、時おり感じる嫌な気配を、夜に感じることが多いから、だった。
その理由が何であるのか、流石に静流も理解している。その理由がわかった今、従姉妹の注意事項さえ守れば、静流に何かが起こることはない、と思っているし、実際、今までも何も起こっていない。だから、逆にうっすらとあった恐怖感は、かなり薄れた。
それも、夜に出かけることを躊躇しなくなった理由だ。
ついでに、従姉妹が居なくて料理をしなくていいし、たまには料理をしたくないというのもこの決意が固い理由だった。
静流は何を食べるか決めようと店のホームページを見るためにスマホをいじる。アプリを開くと画面に大きく今日の七時からサッカーの試合があると書かれていて、静流は店で食べるつもり だったのをやめて家に持ち帰ることにする。
そうなると、買いに行くのは早い方がいいだろう。
静流はスマホを持って気もそぞろに勝手口の鍵を閉めると、 駅前のハンバーガーショップに向かうため小部屋から出て行った。
*
結果的に、駅前の新しいハンバーガーショップは当たりだった。パテの肉感が静流の好みドンピシャで、また食べたいと思えるものだったし、ついでにハンバーガーをぱくつきながら見始めたサッカーも日本代表が一対〇と最後の最後で点を決めて勝ったのも、またそれにプラスした。
サッカーを見終わって、食べ終わったごみを片付け、上機嫌でお風呂でシャワーを浴びていた静流はベルが鳴る音がした気がした。
え? と思ってシャワーを止めるが、もうその音は聞こえなくて、静流は気のせいかとまたシャワーを再開した。
お風呂から上がった静流は短パンにTシャツ姿で髪をバスタオルでわしゃわしゃと拭きながら、勝手口のある小部屋に向かっていた。
さっきのベルの音が気になったからだ。
だが、静流の記憶をたどれば、ハンバーガーショップに行く前に勝手口の鍵は閉めておいていたし、あの勝手口のベルが鳴るはずがない。そうわかってはいるのだが、何だか胸騒ぎのような変な気持ちがあって、念のため鍵が閉まっているか確認しようと足を向けたのだ。
勝手口のある小部屋につながる扉を開けると、そこは当然のように真っ暗で、静流は電気をつけようと右側の壁に手を伸ばした。
が、その手は壁にはたどり着くことなく、静流の体はピキリと固まってしまった。
頭にかぶっていたバスタオルが、ばさりと足元に落ちる。
まずい。
直観的に静流は何かがあると感じた。既に体が固まって動けなくなっているのだ。何かがあって当然だろう。
「おまえか」
突然、左側から男性の声がした。ひぃっ、という静流の喉をかすれた悲鳴が暗闇に響く。
「おまえか」
再度問いかけられても、静流の体は動くことなく、左側には視線しか向けられない。だが、静流には暗闇があるようにしか見えない。静流の背中にはだらだらと冷や汗が流れ、恐怖の感情が静流を支配していた。
「おまえなのかと聞いてるだろう!」
しゃがれたようなその声は、聴いていて心地の良い音声ではなく、静流には恐怖しか生まない。
一体何が起こっているのか、静流には理解できない。だが、緊急事態であることは間違いないだろう。
とてもじゃないが、今の静流は冷静にその声の主に答えられるような心理状況ではない。
ここでYesと言うべきなのか言わざるべきなのか、あまり働かない頭で考えて見ても、静流には答えが出そうにもなかった。
「伝言を伝えるんだろ!」
男性の怒声に、静流は恐怖で震えあがる。気分的には体も連動している気がしているが、実際の体は固まったままだ。
「してるのか!」
静流は恐怖に支配されたまま、頷こうとするが当然のように頭は動いてくれない。
だが口から声を出そうにも、声がのどに張り付いたまま、静流の口からは出てきてくれそうにもなかった。
「おまえ、俺を馬鹿にしてるのか!」
ぶわり、と窓も空いていないはずの小部屋に、激しい風が巻き起こる。ガランガランと激しいベルの音と、バシッ! と何かが壁に当たる音がして、静流は怯える。実際は、カウンターの上に置いたまにしていたペンが先ほどの風に飛ばされ壁にぶつかった音だったが、静流には何が起こったか見えていないため恐怖の音でしかない。
ひたり、と冷たいものが、静流の首に触れる。ぞわり、とした恐怖が、静流の背中を駆け抜ける。
確かに冷たいものが静流に触れているはずなのに、闇に慣れてきた静流の目には、目の前に誰もいるようには見えなかった。
それに、その首に触れている冷たいものが一体何を示すのか、静流にはとてもポジティブなことは考えきれなかった。
恐怖で静流の歯がカチカチと鳴り出す。
「静流?!」
ガラガラと玄関が開く音がして、従姉妹が帰って来たのだとわかる。カチカチと歯を鳴らしながらも、呼ばなきゃ、という気持ちと、従姉妹を呼べば助かるかもしれない、という期待が沸く。
静流は何とか声を出そうと思う。だが、静流の声のはずなのに、静流の喉からはかすれた息を吐く音だけしか出てこない。
ひたりと静流の首に触れた冷たいものに、力が入る。ぐぅ、と静流の喉から、静流が希望していない音が漏れる。
「静流?」
足早に歩く音が、小部屋に近づいてくる。と、ぴたっとその足音が止まる。
近づいてくる足音に期待を膨らませていた静流は、止まってしまった足音に絶望を感じる。また静流の首に触れた冷たいものに力が入る。
ダダダダ、と急ぐ足音がして、バン! と勢いよくドアが開く。
「去れ!」
聞いたこともない従姉妹の大声が聞こえた瞬間、静流の首に触れた冷たいものがなくなり、ガランガランと激しいベルの音がして、その暗闇は再び静寂を取り戻した。
静流はへたり、と床に座り込む。パチリと小部屋の電気が従姉妹によってつけられると、従姉妹はカウンターの内側に置いてあったサムターンカバーをつかんで急いで勝手口のドアに着ける。
そして、従姉妹はホッと息をついた。
「大丈夫?」
従姉妹はのろのろと静流に近寄ると、しゃがみこむ。
「……こわ……かった」
静流は涙腺が緩みやすくなったせいか、ジワリと涙をにじませる。
「ごめん」
従姉妹が何に対して謝ったのかは静流にはわからなかったが、従姉妹に頭を撫でられることにホッとしたのは間違いなかった。
「行こう」
静流が落ち着いたのを見計らって、従姉妹が静流を促す。従姉妹に差し出された手にすがるように掴まると、静流はヨロヨロと立ち上がった。
怖かった。
その恐怖はまだ残っている。ひたりと首に触れる冷たさも。だが差し出された手が温かい、それだけで静流の気持ちは少し落ち着いた。
従姉妹に促されるように静流は居間のソファに沈み混む。
従姉妹は台所に行くと麦茶の入ったコップを二つを持ってローテーブルに置いた。
静流はそろそろとコップに手を延ばすと、一口飲む。すると恐怖で忘れていた喉の乾きを強烈に思い出したように、ごくごくと麦茶が喉を滑り落ちる。
静流が麦茶を飲みきってトンとコップをローテーブルに戻せば、従姉妹は何も言わずもう一つのコップを静流に差し出した。
静流はそのコップを受けとると、また最後まで飲み干した。ふう、と静流が息をはく頃には、カラカラだった喉は潤いを取り戻したような気がした。
ふと静流が横を見れば、従姉妹は何やら 絵を描いている最中だった。
従姉妹は絵が得意なようで、よく複雑な説明や長くなりそうな話などを絵で描いて文字を書き込んでから補足の説明をすることがある。勿論単語で。
小さい頃の静流が、単語で話す従姉妹の説明を理解できたのも、従姉妹が絵を描いてから説明してくれたことが大きいだろう。そうでなければ行間を読み取る能力の乏しい五歳児がこの従姉妹の説明を理解できるわけもない。
従姉妹のこの説明の絵を見たのは、静流がこの家に住むことになった三か月前ぶりだ。従姉妹はボランティアの説明に絵を使用していた。
普段の生活で、静流と従姉妹の間に絵を必要とするほどの細かいやり取りはもう今となっては必要ないため、従姉妹の絵が出てくることはない。
どうやらその絵は家の間取りを描いていて、それとは別にいつもつけているサムターンの絵が描いてある。
書き終わったと静流が思うと、従姉妹はもうひとつ小さく家の間取りを描いた。それは五年ほど前にリフォームする前のこの家の間取りだった。
静流はそう言えばと、勝手口のある小部屋が前は台所だったことを思い出した。
今はキッチンとダイニングとして使用している部屋は、元々その台所と壁はなくて、ダイニングとして使われていた。
だが、五年ほど前にリフォームして、勝手口のある小部屋が出来た。確かその時の小部屋は今と違って板張りで、外から土足で入るような作りではなくて、物置のようになっていたはずだ。
今みたいなカウンターと土足で入れるたたきになったのは、二年前、祖母が亡くなって以降だろう。静流はこの小部屋がこうなっているとはずっと知らなかったし、従姉妹はその小部屋のドアに鍵をかけていたから、静流はこの部屋に入れないものだと思い込んでいたくらいだった。
従姉妹は描いていた紙を静流の前に置いた。
「幽霊の道」
従姉妹はそう言うと、以前の間取りの方にペンをたてる。そのペンは勝手口からダイニングを通って、廊下を通りトイレを抜けて外に出た。
「……ずっと幽霊が通ってたってこと?」
今の今までそんなことに気付きもしていなかった静流は、ぶるりと体を震わせた。
従姉妹は首を小さくふって、護符、と紙に書き付ける。そしてそこから線を引いて勝手口まで引っ張ると、星印を描いた。
「護符が勝手口にあったら通らないってこと?」
静流の理解した内容を口にすると、従姉妹はコクコクと頷いた。
「護符さえあれば大丈夫ってこと?」
静流の疑問に、従姉妹は首を横に振った。
「弱くなると」
そう言って従姉妹はばつ印を勝手口に付ける。
「護符って弱くなるの?」
「霊力で」
コクンと従姉妹は肯定した。どうやら書いた人間の霊力が関係するらしい。
「それと……リフォームした間取りって関係するの?」
従姉妹はこくりと頷く。
従姉妹は小部屋のしきりのドア部分と勝手口に星を描いて、勝手口の星をサムターンカバーと結びつけた。静流はそこでようやく、従姉妹が勝手口にサムターンカバーを付けるように言った理由を理解した。
「サムターンカバーに護符が貼ってあるの?」
静流の言葉に従姉妹は頷く。
「ごめん」
そう謝る従姉妹は、この事を静流に説明しなかったのを悔やんでいるように見える。
確かにそういう理由で護符が貼ってあると知っていたら、静流もサムターンカバーを忘れなかったかもしれない。……でも、たられば、だ。知っていても忘れてしまうことだってあるはずだ。
「ここは……もしかしてサムターンカバーを忘れても中に入ってこれないように護符が貼ってあるの?」
従姉妹が星を描いた場所はもうひとつあった。
前の間取りにはない壁と新しく作られたドアにその星は付いている。その意味は、そうなのだろうと静流は見当をつけた。
従姉妹はこくりと頷いて、トントンと絵のその部分をたたく。
「神棚に」
あの小部屋に新しく作られていた神棚の意味が、静流にもようやくわかる。
ボランティアを手伝うことになってあの小部屋に初めて入ったとき、あの場所にある神棚の新しさに違和感はもっていた。だが、単に従姉妹か祖母が信心深いのだろうくらいにしか思っていなかった。ただ前者の信心深さは早々に否定していたのは、あの神棚を拝む従姉妹の姿を見たことはなかったからだ。
だから、あの神棚の存在は、もう見慣れてしまった静流には景色の一部でしかなく、まさかそんな意味があるとは思ってもいなかった。