2話目 伝言の意味 後編
「きら姉!」
瞬間的にカッとした静流は、何も考えず従姉妹に駆け寄った。
「は?」
なんでここにあんたがいるの? という従姉妹の無言のメッセージを受け取った静流だったが、今回ばかりは無視して気付かなかったことにした。
「何で伝言伝えないんだよ!」
「……別に」
答える義務はないと言われても、静流には納得ができない。
「行くんだよ、二○一に!」
静流は従姉妹の腕をつかむとアパートに向かって進もうとする。が、予想外に従姉妹は抵抗をした。
「きららって呼ぶよ!」
静流がそう言った瞬間に動揺したのか、従姉妹の力が少しだけ緩み、体は静流が進む方向に動き出す。
「どっちもいや!」
きららと呼ばれることも、アパートに行くことも、どちらも抵抗する従姉妹だが、一度勢いづいた静流の力には勝てずアパートの階段まで進んだ。だが、流石に階段を上るのだけは、引く力だけではどうにも出来そうにない。
「きらら上ってよ!」
「いや!」
階段下で行われる力と声のやり取りは、アパートの住人にも伝わったんだろう。うるせー! と叫ぶ一階住人の声に、静流も従姉妹も口をつぐむしかなかった。が、無言での力の駆け引きはまだ続いていた。
カチャリ、という音に、静流が階段の上を見上げれば、そこには訝しそうに階段下を覗き込む男性の姿があった。
あ、と静流は思う。
「橋爪康太さんですか?」
あ、と声を漏らした従姉妹を押し退け、静流は階段を上る。押し退けられた従姉妹は階段の下に転ぶことになったが、説教はあとで聞けばいいと、静流は気にしないことにした。
「そうですけど……」
名前を呼ばれた橋爪は、ツナギ姿で、今日静流が会ったキャリアウーマンに見えるあのスーツ姿の女性と二人が並んでいる姿はいまいちピンと来なかった。だが、伝言を頼まれたのは事実だ。
「西……山さんから伝言です、もうあなたのことは好きじゃないと」
静流は伝言主の名前まで覚えている自分を褒めてあげたい気分になった。だが、橋爪が目を見開いたのと静流の口が塞がれたのは同時だった。
「すいません。この子時々変なこと言うんです。気にしないでください」
従姉妹は静流を引っ張ると、階段を下りようと促す。
文章をしゃべる従姉妹に驚いたが、静流はそんなことを言われたことに納得がいかないために抵抗をする。
「何でお前にそんなこと言われなきゃならないんだよ」
低く地を這うような声に静流はギクリとする。ぱっと見人の良さそうだった橋爪が、今は明らかに怒りをにじませる表情で静流を睨み付けていた。
男の静流でもひやりとする眼差しだ。静流も流石に不味いと逃げの姿勢になる。よくよく考えれば伝言の内容は別れの内容で、それを何の算段もせずストレートに告げることなど、相手の怒りを得て当たり前だ。
「逃げて」
従姉妹はそう言うと我先にと言わんばかりに階段をかけ下りる。静流もそれを追いかけて階段を下りようとする。それよりも先に静流の首根っこをつかもうとした橋爪の手は静流の持ち前のすばしっこさで何とか逃れた。
静流は道に出るとき右に曲がった従姉妹がちらりと静流を見たことの意図を読んで、従姉妹とは反対の左に曲がった。次の角を曲がるとき振り返ると、道の真ん中で静流を睨み付ける橋爪と目があった。橋爪は左右を見てまだ距離の近い静流を追いかけると決めたようで、静流に向かって走り出した。
静流はとりあえず捕まるのは不味い気がして、足を踏み入れたことのない道を街頭の明かりだけを頼りに全速力で駆け抜けた。
ぜえぜえ、と息を切らせながら、足がおぼつかなくなって立ち止まると、静流は後ろを振り返る。
橋爪の姿は見えなくて、静流は大きく息をはいた。それでも、久しぶりの全速力は堪えて、膝に手をついた姿勢は戻せない。
「君、大丈夫か?」
男性に声をかけられて、静流は小さくコクコクと頷いて顔をあげる。
大柄な男性を見上げて、静流は口を開く。
「大丈夫です」
精悍な顔の男性の眉が寄る。どこか厳しくなった視線に、静流はドキリとする。
「変な奴に追いかけられてるとかじゃないのか?」
「……いえ」
橋爪のことをどう説明すればいいのか、静流にはわからなかった。
「犯罪に巻き込まれた、とかではないんだね?」
「それはないです!」
咄嗟に反応した静流に、男性が困ったように首をかしげる。
「でも、今君は後ろを振り返ったよね? それは、誰かに追いかけられたから、じゃないのかな?」
「それは……」
「……もしかして……悪いものに追いかけられた?」
「へ?」
男性の言葉に、静流は意味がわからなくて首をかしげる。
「いや、違うね。悪いね、こういう人間だから、気になる質でね」
男性が警察手帳をスーツの内側から覗かせた。
なるほど、と思う。
悪いことをしたつもりはなかったから、静流はあせることはなかった。
静流は息を吐くと、今の状況に一番適当な言葉を探した。
「そうですね……余計なお世話をして、人を怒らせてしまって……」
そう言ってから、静流は自己嫌悪に陥る。
そうだ。静流がやったことは、橋爪からすれば、余計なお世話だった。
ハハ、と男性が軽く笑う。どこか緊張していた空気が緩むのが、静流にもわかった。
*
「ただいま」
「おかえり」
「ね、きらら。あれはないでしょ」
従姉妹は静流よりスムーズに帰宅できたらしい。既にお風呂にさえ入っている。
あの出来事の主因が静流であることは重々理解していたが、顔を見たら文句のひとつも言いたくなった。
久しぶりに全速力で走ったせいで静流はくたくただったし、たどり着いた場所が知らない場所で気分的には大変だった。あの警察官がいなければ、駅に行くにも難儀しただろう。それでも、とてもその道は遠く感じた。
八つ当たりだとは静流も気づいていたが、そもそも伝言を伝えようともしなかった従姉妹も悪いと思うのだ。
「ごはん」
でもその前に、出掛ける前に静流は約束した夕食を出さないといけないらしい。既に八時は過ぎている。
「わかったよ」
静流は台所に向かうと、てきぱきと用意していた食事を並べる。今日は元々出かけるつもりだったため、後から並べれば済む冷たくていいものばかりを揃えていた。
メインはサラダうどんだ。少し季節には早いかもしれないが、冷たくても平気な食べ物を考えていたら静流はどうしてもそれが食べたくなって作った。麺が伸びているだろうことはご愛敬だ。
「いただきます」
その挨拶が済めば、従姉妹が口を開くことはあまりない。だから食卓にいてしゃべるのは専ら静流の役割だった。……いつもは。
「何で?」
従姉妹にギロっと睨まれ、静流はムッとする。従姉妹が言いたいのは、“何でついて来たんだ”だ。
「伝言を預かる立場の身としては、その伝言が本当にきちんと伝わってるのか知りたかっただけだよ」
「いいの」
「良くないでしょ! 伝言預かりますよって言っておいて、伝言伝えないとかないから! きららが何考えてるのかわからないけど、あれはないよ」
「怒られたし」
「……そうかもしれないけど」
確かに静流はすごい形相で橋爪に追いかけられる羽目になったわけだが。
「いいの」
だからいいのだと正当化する従姉妹に、静流は勿論納得はできない。
「きららは良くても伝言頼んだ人は良くないでしょ! じゃあ何のために『ことのは屋』なんてボランティアしてるわけ」
「……きららじゃない」
今話してるのはそこじゃない、と思いつつも、静流はため息をついてその話に反応してあげることにした。
「きら姉は、間違いなく“きらら”でしょ。季節が来ると書いてきらら。ほら、おかしいことないし」
従姉妹こそよく知っているはずの従姉妹の名前について説明すると、言われた方の従姉妹は明らかに嫌な顔になった。季来は従姉妹の正式な名前で、その名前を嫌っている従姉妹は小さな頃から静流にきら姉と呼ぶようにしつけた。だが、それを知っている静流は従姉妹に怒っている時は必ず“きらら”と呼ぶことにしている。
「知らん」
自分の分が悪いとそう言ってごまかすのも従姉妹のいつもの癖だ。
「とにかく、あんな風に伝言承りますってしてるなら、きちんと最後までやってあげなよ。できないって言うなら、最初から伝言受けなきゃいいでしょ!」
「怒られる」
それが伝言の主からではなく、伝言を渡す方の相手にということがわかって、静流はため息をついた。
静流がこのボランティアを手伝いだして三か月。伝言を頼んだ人が、本当に伝言を伝えたかどうか確認しに来ることはなかったし、伝言が伝わっていないと文句を言いに来た人もいなかったからだ。怒られたのは伝言を渡す方の相手、ということだろう。
静流のため息は本当にこの従姉妹はポンコツだと再確認したからだ。伝言を伝えなかったことに対しては罪悪感のかけらもないらしい。
「あれは……確かに怒られたけど……。仕方ないでしょ、別れの決定的な言葉を第三者から知らされるって……嫌だよね」
「だから」
だから行かないってないだろ、と静流は思うが、従姉妹の顔は当たり前のことを言っているような表情で、まるで静流の方が間違っているとでも言いだしそうな顔だ。
「でもさ、ここに頼みに来るってことは、自分では伝えられないけど、伝えて欲しいって気持ちがあるからでしょ。……たとえそれが相手に怒られることになっても、こんなボランティアします、って言ってるなら伝えてあげようよ」
「いやだ」
「ならどうして、その伝言を託された場所の近くまでは行くの?」
「……散歩」
言い訳に事欠いてこれか、と静流はため息をつく。
もう三十六歳のはずの従姉妹だが、その行動や発言を見ていると、本当に自分より十八も上なのかと疑わしく思えてくる。
それは、今日に始まったことではなかったが。
そんな従姉妹との付き合いが密なために、従姉妹の発する単語から従姉妹の言いたいことを読み取る能力を獲得していった静流だったが、はっきり言って、こんな能力を望んでいるわけではない。
「じゃあ、ボランティア辞めたら」
「いやだ」
本日何度目かになる拒否の言葉に、静流も本日何度目かになるため息をついた。
「じゃあ、僕が行くよ」
「駄目」
即座に従姉妹の口から放たれた言葉には、強い拒否があって、食事を進めていた静流が驚きで従姉妹を見れば、従姉妹は今までにない冷たい目で静流を睨んでいた。
「絶対しないで」
畳みかけてくるその言葉にも、従姉妹の強い拒絶が見えて、静流はひるむ。
「でも」
「出てく?」
「……わかったよ」
渋々ではあったが、従姉妹の拒否に静流は頷いた。この家を追い出されると困るのもわかっているからだ。
きっと色々と理由があるんだろうが、話してくれない従姉妹からすべてを静流が読み取れるわけもない。そのうち話してくれること期待して、静流は現状維持に努めることにした。
「そ」
さっきまでの鋭い眼光が消え去った従姉妹は、いつも通りの飄々とした表情で、サラダうどんをすすり始めた。
*
コンビニの前を通りかかった時、暑いな、と思いながら歩いていた静流は、大学の友達が新作アイスの話をしていたことを思い出してコンビニに足を向ける。
従姉妹から預かった食費であればコンビニで消費するのに戸惑いはあるが、静流は食事を作ることとあのボランティアの手伝いをすることを条件に、親から託された従姉妹に渡すべき家賃替わりのお金をそのまま自分のお小遣いとして使っていいことになっているため、お金には余裕がある。
寡黙な従姉妹から親に真実が伝わる危険は最小限なため、静流さえポカをしなければ、このことは大学四年の間ばれないはずだ。
従姉妹の家を追い出されると言うことは、その自由に使えるお金がなくなるということでもあり、バイトをしなければならなくもなり時間の余裕もなくなる。そのため、従姉妹の家を出ていくという選択肢は、今のところ静流にはなかった。
新作のアイスを買って、ホクホクとコンビニから出たら、あ、と頭上から声がした。
へ? と思って顔を上げると、どこかで見覚えのあるつなぎの男性が立っていた。
それが誰かを思い出し、逃げなきゃいけない、と静流が思った時には既に、静流は男性の手で腕をがっしりとつかまれ、逃げることは叶うことはなかった。
「この間は、どうも」
静流はとりあえず“敵じゃありません”とニコリと笑ってみせた。
「あれは……本当にまなみの伝言か?」
でも、予想外に男性の……橋爪の声色は穏やかで、この間見た怒りの表情は見つけられなかった。そのことに静流はホッとして、大きく頷いた。
「まなみさんは、髪の長いキャリアウーマンみたいな女性ですよね? ……タバコ吸ってたりしましたか?」
ああ、と声をこぼす橋爪は、ため息をつくと静流の腕をつかんでいた手を離す。
「本当にまなみからの伝言なんだな」
その目が遠くを見るのを見て、静流は橋爪が伝言をきちんと受け取ってくれたのだと理解した。
「すいません、初対面なのに不躾にあんな風に伝えてしまって。……あれじゃ怒るのも仕方がないです」
「……いや。俺こそカッとなって悪かったよ。……まなみとは知り合いか?」
「顔見知りってところです」
そんな事実はなかったが、それ以外の説明は何だか難解になりそうな気がして、静流は口をつぐんだ。
「あれはいつ? ……いや、いい。悪いな、この間怖がらせたの謝りたかったのと、本当にまなみからの伝言なのかって知りたかっただけだから」
「そうなんですね。わざわざすいません」
「いや、俺もまさかこんなところで遭遇するとは思わなかった。現場がこの近くで」
橋爪はどうやら仕事中らしい。まだ五時には大分早いため、静流はきっと休憩か何かだろうと思う。
「あの、お仕事大丈夫ですか?」
静流が尋ねれば、橋爪も今の状況を思い出したらしい。
「あ、お茶買って行かなきゃ。……わざわざ伝えに来てくれてありがとうな」
「いえ。……あの、じゃあ失礼します」
伝えた内容を思い出すと、静流は感謝の言葉を素直には取ることはできなくて、幾分気まずい気分になる。
「ああ」
でも、橋爪は少し陰った表情にはなったものの、最後には笑顔を見せて手を振ってコンビニに入っていた。
ほっと息をついた静流は、確かに気まずくはあったけれど、自分がやったことがあながち間違いではなかったんだと思う。
確かに橋爪にはショックだっただろうし、別れの言葉を第三者から伝えられるなんて、ひどいと思うが、『ことのは屋』にまなみが伝言を頼んだと言うことは、まなみは直接橋爪には告げるつもりはなかったはずだ。もし静流があの伝言を伝えなければ、きっと橋爪はずっと曖昧な別れのまま、まなみとの付き合いに区切りをつけられなかったはずだ。
橋爪のあの表情は、その恋に区切りがつけられたと言うことだろう。
静流はやっぱり、頼まれた伝言がどんな内容だとしても、きちんと伝えるべきなんだと思った。 『ことのは屋』が伝言を預かると、そう宣伝している限りには。家に帰って、従姉妹を説得しようと静流は心に決める。
「あ、アイス!」
カサリ、と手元から音がして、静流はさっき買ったばかりのアイスの存在を思い出した。
早く帰って食べようと家に向かう静流の足取りは軽く、午後の日差しを浴びる静流の表情はどこか晴れやかで、その目は決意に満ちてキラキラと輝いているようにも見えた。