17話目 伝言はない 前編
静流は自分の動きののろさにため息をついた。
体調が悪い、と言えばそうなるのかもしれない。夏バテだ。
いつもは暑さに強いつもりでいた。だから、夏の暑さでバテたことなどなく、油断していた。
最近はあまりの暑さに火の前で料理をする気にもならず、連日素麺が続いている。勿論素麺を茹でるのに火を使いはするが、あっと言う間にゆで上がる素麺のお陰で、あまり鍋の前に立たなくていいことも重宝している理由だ。
その日々の食事が、益々静流から力を失わせているのだと言うことも理解しているが、昼は面倒でつい抜くこともある。今日みたいに従姉妹が夜にいなければ、夕飯も。
それでも律儀に勝手口を開けてしまうのは、受け取れなかった伝言があると思うと申し訳ない気分になるからだ。
結局、今日は誰も来なかった。そして薄暗くなってきた空を見て、静流はのっそりと鍵閉めの作業を始めたところだった。
静流が勝手口のカギを閉めようとした瞬間、すりガラスの向こうに影が現れた。
え? と思う前に、ドアが勢いよく開く。
カランカラン。
ベルの鈍い音が頭上から降り注いでくる。
「お、出迎えか?」
のんきな声で笑うのは、健紀だった。
「いや、違うけど」
「お前までつれないこと言うなよ。喜べ」
一方的な健紀の言葉に、静流は眉を寄せた。
「不法侵入」
「何が不法侵入だよ。俺は、今日きららから頼まれごとしてんの!」
「頼まれごと?」
「そ。お前の夜ご飯。ほら」
静流の目の前に、駅前のお弁当屋さんの袋が突き出される。静流は勢いに押されて瞬きを繰り返した。
「何?」
「から揚げ、普通に好きだろ?」
どうやら中身はから揚げ弁当らしい。
「ありがとうございます。……まあ好きだけど」
確かに静流はから揚げが好きではある。だが、今の夏バテ気味の今の状況で、から揚げが食べたいかと言われれば、大分違う。
「何だよ」
どうやら静流が微妙な顔をしたのに気づいたらしい健紀が、憮然と腕を組む。
「……もっとさっぱりしたやつが食いたかった」
「そんなんだから夏バテになるんだろ」
いや確かにそうかもしれないが、から揚げは静流の胃が今求めていないのだ。
「……そうかな」
納得は行かないが、静流が最近食事を抜くことがあると知った従姉妹が健紀に頼んだと思うと、無下にもできず、曖昧な返事をしておいた。
『ピーンポーン』
チャイムののんきな音がする。
「お」
健紀が静流を押しのけて勝手に先に動き出そうとする。
「健紀さんのうちじゃないんで、僕が出ます」
静流は健紀を押しのけて、玄関に向かった。
確かに健紀は今日は従姉妹に頼まれてうちに来たのかもしれないが、だからと言って、我が物顔で動かれても困る。
従姉妹の気持ちは確実に健紀にはなく、健紀がうちの中を我が物顔で歩いていたら、光に申し訳ないような気がしたからだ。
「はーい」
「えーっと、きららの……友達の光だけど」
ついさっき思い浮かべた人物の声がして、静流は驚く。鍵を開けてガラガラ、と戸を開けると、いつもと変わらぬ格好で、光が立っていた。
「呼び鈴、鳴るんだな」
光が告げた言葉に、静流はぷっと吹き出す。
「確かに年季物ですけど、まだ壊れてませんよ」
この家は、築年数が相当古い。だから、その時から帰られてない呼び鈴自体も、年季が入っているのは間違いなかった。
「そういうことじゃなくて」
「あれ? 静流、誰?」
健紀の存在を一瞬忘れていた静流も、嫌が応にもその存在を思い出した。先ほど止めたにも関わらず、健紀は家の中に上がってきたらしい。
「健紀さんありがとうございました。お客さん来たんで、帰って下さい」
「え?」
玄関先を覗き込もうとする健紀を、静流は持てる力で押しやる。
「帰って下さい!」
「はいはい。じゃ、お邪魔しました」
静流がきっぱりと言うと、健紀は渋々廊下を進んでいく。
「誰?」
光の問いに、静流はどう言っていいか困る。この間はライバルがいると言って見せたが、はっきり言って、健紀は従姉妹の眼中にない。今日来たのだって、単に頼める近所に住む人間が健紀くらいしか思いつかなかったからだろう。静流だって、健紀くらいしか思いつかない。
「近所の人?」
カランカラン、と低い音がして、健紀が出て行ったのはわかった。
「さっきの人、どこから出て行ったわけ?」
ベルの音に、光が戸惑ったように廊下の奥に視線を向ける。
「勝手口からです」
「……それって、勝手口はいつも開いてるってこと?」
「そうなりますね」
「不用心だろ」
顔を険しくした光に、静流はため息をついて見せる。
「それ、きら姉に言ってもらえますか。僕が言っても聞いてもらえなくて」
「きらら……一人の時もそんなことしてたってこと?」
「そうなんですよ。不用心だって言ったんですけど、別に大丈夫だろうって。うちに取られるようなものはないし、きら姉は襲われることはないって」
光から言われれば従姉妹も気持ちを変えるかもしれないと、静流はありのままを伝える。
「何でそんな不用心なこと!」
怒ったような光は、従姉妹のことを本気で心配しているんだろう。これが、健紀と光の違いだな、と静流はその怒りの矛先が自分にないのを理解して、そんなことを冷静に思っていた。
「……でも、開けてるのには理由もあって」
「一体どんな理由が?」
「幽霊が入って来るのに、開けといて欲しいって」
「……あー。もう。ちょっと勝手口見せてもらえる?」
従姉妹のやりたいことを理解したんだろう光は、対策がないのか考えることにしたらしい。静流は頷いて勝手口のある小部屋へ光を連れて行く。
「……この部屋って、元々何の部屋だったの?」
不思議な作りの部屋を、光がぐるっと見回す。
「元々は隣の部屋とくっついてて、台所があったはずです。いつだったか忘れたんですが、リフォームして隣の部屋と仕切られて、物置になってたはずで、こうなったのは、たぶん二年くらい前です」
「……わざわざこういう部屋にしたってこと?」
「そう言ってた気がします」
「で、あれが例の勝手口なわけね」
勝手口に近づいた光が、そっとドアノブを握ると、ドアを開ける。カランカランと澄んだ音がして、光は上を見上げる。
「このベルがあるから大丈夫とか、きらら思ってるわけじゃないよね?」
「……わかりません。でも、そうかもしれません」
「……このドアそもそも、鍵かけてても簡単に開けられるよな……」
何か言いたげに光はドアノブを見つめている。
「一応サムターンカバー、あるんです」
静流がカウンターの下からサムターンカバーを取り出して見せれば、光が近づいてきてサムターンカバーを見る。
「まあ、ないよりはマシか。でもこのドアだとこじ開けられたりとか……」
「光さん、そんなこと言ったら、この家ものすごく無防備なので、セキュリティないに等しいですよ」
「……古い家だからな」
はぁ、とため息をついた光は、ドアをじっと睨む。
「そう言えば、霊ってすり抜けるものだろ?」
「……普通がどうかは知りませんけど、そうみたいですね。ただ、そのドアだけなぜか開けられるらしいです」
「どんな仕組み? ってか、そのドアだけじゃないだろ」
「そうなんですよ! この部屋の中のものも、幽霊は触れるみたいで、ペンが持てたりするんです!」
光の言葉に、静流は従姉妹以外に披露することのできなかった知識をひけらかす。
光が首を傾げた。
「えーっと……どういう仕組み?」
「よくわからないんですよ」
「……さっぱりわからん」
光が首を横に振る。
「大丈夫です。僕にもわかってないし、きら姉もペン持てるって僕が教えて知ったみたいでしたから」
「で、つまり、このドアは、開けないと幽霊は入れないってこと?」
光にそう言われてみて、静流はあれ、と思う。
「いえ。サムターンカバーが付いて無ければ、幽霊は鍵かけてても入ってこれます」
一度静流が怖い思いをしたとき、あの時はドアの鍵は閉まっていて、でもサムターンカバーをつけていなかったせいで、あの悪霊ともよべる幽霊がこの部屋に入ってきてしまっていた。
確かその時、ベルの音もしていたはずだ。
「閉めてても、大丈夫かもしれません。ベルの音も、その時もしていた気がしますし」
「……じゃあ、今日は閉めておいてもいいか?」
光が少しホッとした様子で、そう提案してくる。
「はい。と言うか、閉めようとしてるところだったんですけどね。夜になったら閉めることにしてるので」
「物騒だからか?」
首を傾げながら、カチャリ、と光が鍵を閉めた。
「えーっと、夜になると、悪い幽霊がここ通るらしくって」
「……悪い、幽霊?」
「そうです。だから、暗くなってきたら、鍵閉めてサムターンカバーつけるように言われてます」
「……幽霊の前に、悪い人間が入ってきそうだけどな」
はぁ、と光が盛大なため息をついた。
「ですね」
静流がうんうんと頷くと、光がぎろりと静流を見た。
「だったら、開けっ放しにするの、断固拒否しろよ」
「色々あって、完全に逆らうこともできないんですよ」
「色々って……いや、常識的に考えてだな」
「光さん、きら姉に常識とか、僕が説けると思います?」
静流が首を振ると、光が肩を落とす。
「きらら、変なところ頑固だもんな」
「そうそう。この間だって、光さんを家に頑なに入れなかったし」
静流の言葉に、やば、と光が声を漏らす。
その反応に、静流は面白くなってクスクスと笑う。
「大丈夫ですって。光さんが仕事中だからって家に入れないとか、どんなこだわりって感じですしね」
「いや……そういうわけじゃ……」
光が先ほどの怒った表情とは全然違う、眉を下げている様子に、静流は首を傾げる。
「気にしなくて大丈夫ですよ。そもそも、きら姉のこと心配しての行動だったんですから、きら姉から怒られる筋合いはないって言うか」
「いや、きららが怒るって言うか……」
「もし怒られたら、僕が加勢しますから! きら姉、変なところこだわりすぎだし……他にも色々」
『ことのは屋』を手伝ってきてからの出来事を思い出して、静流は苦笑する。
光は口を閉ざすと、居心地悪そうに瞳を揺らした。
「気にしなくっていいですって。光さん、お茶は出して大丈夫ですか?」
「えーっと、お茶も何もいらない。ところで、きらら、もうすぐ帰ってくるんじゃないのか?」
「今日はきら姉、飲み会ですよ」
「そうか」
どこかホッとしたような光に、静流は微笑む。
「きら姉に何か用だったんですか?」
「いや、大したことじゃない」
首を振る光に、静流は、あ、と思い出す。
「あの、どうして二人が付き合ってないのかって話、今聞いてもいいですか? まだ仕事中ならダメなんでしょうけど」
静流の質問に、光が苦笑する。
「仕事中ではないから、話すのは構わないけどな」
光の返事に、静流が頷く。
「じゃあ、あっちに移動しましょう。ここ、ゆっくり話するような場所ではないんで」
静流たちは小部屋を後にして、居間に移動する。
「そう言えば、さっきの人は、何しに来てたんだ? 幽霊、なのか?」
「いや、生身の人間ですよ。お弁当を買ってきてくれたんです」
「……差し入れ?」
首を傾げる光に、静流は、えーっと、と言葉を探す。
「……夏バテしてて、あんまりご飯食べてないんで、それで……」
「さっきの人と仲いいんだな?」
「仲いいっていうか、単なる近所の知り合いって感じですけどね」
他にいい説明を静流は持ち合わせていなかった。
「どうぞ」
静流は今のソファーをすすめる。
頷いた光が、ソファーに座った後、少し上に視線を向ける。
「あいつ、どっかで見たような気もするんだよな」
「……たぶん光さんたちの四つ下なんで、学校が一緒になったことはないはずですよ」
「四つか。確かに学校が一緒になることはないな。……あれ?」
光が止まる。
「何ですか?」
「それって俺が高校生の時には中学生ってことか?」
「そうなりますね」
「きららに突っかかってきてた中坊いたな。確かきららにタケって呼ばれてた」
「あー。まさしくそれです」
「あれか」
光の苦笑の意味が分かって、静流も苦笑を返す。たぶん、光には健紀が従姉妹に突っかかっていた意味が分かっていたんだろう。
「今も?」
「きら姉はこれっぽっちも相手にしてないから大丈夫です」
その静流の情報にほっとする光に、やっぱりなぜ、と静流は思わずにはいられない。




