10歳下の美少年に求婚されて断ってから、10年後同い年になって「生涯愛し抜くと誓う」と2度目の求婚をされるまで
「いーやーだーっ!! 僕、アメリアお姉ちゃんと結婚するのー!!!」
子守をしていた天使のように愛らしい6歳の男の子の泣き声と目を開けていられないほどの眩しい魔法の光を最後に、私は長い眠りの中に落ちてしまった。
◇ ◇ ◇
私、アメリア・フィンリーは伯爵家の娘だ。
特別豊かでもなく貧しくもない適度に田舎の家で、のんびりと育った。
しかしだからこそ、不安だったのは社交界デビューだ。王都に行かなければいけない用事もなく、田舎暮らしが楽しかったため、ついつい都会も他の貴族も知らないまま、十四歳までのびのびと過ごしてしまった。
栗色の髪も青い瞳もこの国ではありふれていて、特徴とは言えない。
唯一の特技は、ピアノを弾くこと。領地に移住してきた世界的に有名だという演奏家から褒められたことは、私の自慢だ。
しかしそれだけでは、社交界デビューなどできるはずもない。
この国では十五歳のうちには社交界デビューを済ませなければならない。しかし私は、家庭教師に習った知識の実践経験が全くなかった。
そこで私は、高位貴族の家で行儀見習いをさせて貰うことになった。
受け入れてくれたのは、まさかの名門オールストン公爵家だ。
今の国王の従弟であるオールストン公爵とは父親がかつて同じ軍に所属していた仲で、その縁で私を受け入れてくれることになったのだ。
馬車で三日間も揺られて辿り着いた王都は、本で読むよりもずっときらびやかだった。中でも王城の次に華やかな城のような建物が、オールストン公爵家だった。
さっそく応接室に通され、私を待っていた公爵夫妻に淑女の礼を披露する。
「は、はじめまして。このたぶぃっ……この度は、素敵なお話をいただき、ありがとうごじゃ、ございます……っ!」
緊張に心臓を押しつぶされそうになりながら最初の挨拶をした私に、公爵が思わずといったように吹き出した。これだけ噛んでいるのだから当然だ。
一方、夫人は微笑みの表情を崩さないままでいてくれている。それはそれで恥ずかしいが、全員から笑われるよりはましだろうか。
私がぐるぐると今更ながら慌て始めたところで、公爵夫人は手に持っていた扇をぱちんと閉じた。そして、優しいまなざしを向けてくれる。その穏やかさに、故郷の母親を思い出して少し落ち着いた。
「ねえ、アメリアちゃんはピアノが上手なのよね? 聞かせてもらっても良いかしら」
そう言われて、断ることはできなかった。
応接室には既にピアノが置かれていた。許可を貰って座り、鍵盤を一つ押してみる。
ぽーんと響いた音が心地よい。
私は、思い切って最近覚えた曲を演奏することにした。
演奏をしたことが良かったのか、普段から弾き慣れている楽器と向き合う時間が得られたことで、私はすっかり落ち着くことができた。演奏をする前と比べて、身体も心も解れているのが分かる。
表情も、最初ほど引き攣っていないだろう。
公爵夫人はすぐに今日一番の笑顔で私を褒めてくれた。
「本当に素敵な演奏だわ。ここにいる間、また聞かせてね」
「ありがとうございます、奥様」
私は嬉しくて、心からの笑みを浮かべた。公爵夫人が驚いたように小さく目を見張る。
公爵が、納得したように頷いた。
「君も気に入ったなら良かった。それじゃ、さっそく君の話し相手として──……クリフ、どうした?」
公爵が驚きの声を上げ、応接室の扉を見ている。
いつの間にかその扉は十センチほど開けられていた。
よく見ると、アメリアの腰ほどの身長の少年が、緊張しているのか、頬を僅かに染めて立っていた。
この国では珍しい真っ黒な髪の男の子だ。瞳は赤く、ルビーのように透き通っている。
「──……お姉さん、ここで働くの?」
クリフと呼ばれた男の子は、小首を傾げて問いかけてきた。
私はその質問の答えを探すように、公爵に視線を向ける。
「そうだよ、アメリアさんだ。クリフも仲良くしてあげなさい」
父親の顔で優しく言う公爵の返事を聞いて、クリフくんは扉を開けて応接室に飛び込んできた。
そのまま、前のめりに公爵の膝に両手をつく。
「お父さま。僕、おねえちゃんと遊びたい!」
きらきらと輝く赤い瞳は本物の宝石のようで、私は思わず固まったまま見入ってしまった。こんなに綺麗な子供を見るのは初めてだ。
公爵はしばらくクリフくんと向き合っていたが、やがて折れたのか小さく溜息を吐いた。
「分かった。クリフがそんなことを言うのは珍しいからね。お部屋に戻ってなさい」
「はーい、ありがとう!」
クリフくんは、素直に応接室を出て行く。
公爵はそれから何事かを夫人と話して、すぐに私のここでの過ごし方が決まった。
「アメリアさんには、妻の話し相手と、息子のクリフォードの遊び相手をお願いしようと思う」
私は驚いた。
「御子息の遊び相手ですか!? でも私、子供と遊んだことなどほとんどありませんが……」
「そんなに身構えないで。世話係は年配の方を別に雇っているのだし、アメリアさんはあの子と遊んで、いけないことをしたら叱ってくれればいいのよ。それよりも、あの子が外の人に興味を示すのは珍しいの。どうか、仲良くしてあげてほしいわ」
公爵夫人はそう言って、僅かに目を伏せた。
そして、私はクリフくん改めクリフォードくんの事情を詳しく聞かされることになった。
クリフォードくんが生まれたとき、髪と瞳の色が両親のどちらにも似ていなかったことで、公爵の両親や王家から、公爵夫人の不貞を疑われたらしい。
心当たりが一切無い夫人は当然その疑惑を一笑に付したが、王家には根強く残ってしまった。
公爵も夫人のことを信じていたため、独自に調べ、クリフォードくんの持つ色が夫人の曾祖母が生まれた南の小国の者が持つ色なのだと分かった。しかしその事実を知るまでに、三年以上もの時間がかかってしまったのだ。
それまでの間王家と繋がりのある高位貴族から冷遇されていれば、クリフォードくんが人見知りに育ち、他人を恐れるようになるのも当然と言えた。
「それに困ったことに、あの子は珍しいほど多くの魔力を持っていてね。安定させる訓練を始めないといけない時期なのに、教師にも心を開いてくれず、なかなか教育が進んでいなかったんだよ」
公爵の話を聞いて、私はなるほどと思った。
私は人並み程度の魔力しか無く、魔法も防御魔法ばかり練習してきた。しかしそれでも、幼少期の魔力安定の練習は大変だったのだ。感情を安定させて、リラックスした状態でなければ練習は捗らないに決まっている。
ならば、他人を恐れているというクリフォードくんの教育がなかなか進まないのも仕方のないことだろう。
「だからこそ、ピアノの音が聞こえたとはいえアメリアさんがいる部屋に入ってきたのはすごいことなのよ。どうか、仲良くしてあげてね」
「分かりました。これから、よろしくお願いします!」
そして私は、公爵の嫡男であるクリフォードくんのお世話を任されることになった。
クリフォードくんは人見知りなところはあったものの、とても良い子だった。
勉強は真面目にするし、大人の言うこともよく理解してくれる。子供らしくやんちゃなところはあまりなく、むしろ様々なことを怖がって、私の後ろに隠れているような子だ。
見た目の愛らしさもあり、私はあっという間にクリフォードくんに夢中になった。
「──今日は、お庭の奥まで行ってみない?」
「むこうには馬さんがいるからこわいよ?」
「大丈夫よ。クリフォードくんの家の馬さんは優しいんだから」
「じゃ、じゃあ行く……」
公爵邸の庭園の端にある馬房まで歩いて、そこで馬丁と会話をしてみた。
最初は知らない大人の男性だからか怖がっていたクリフォードくんも、繰り返す度にやがて自分から馬のことをあれこれ質問するようになっていった。
「お茶会、行きたくない……」
「そうね……きちんとご挨拶ができたら、何か一つお願いを聞いてあげましょう」
「えっ! じゃあ、新しいお歌弾いてくれる?」
クリフォードくんがねだるのは、いつだって私のピアノだ。初対面のとき、余程気に入ってくれたらしい。
「そうしましょうか。頑張ってきてね」
ご褒美があると、クリフォードくんは絶対に頑張って帰ってくる。その前に、私も復習をしておかないといけないだろう。
少しずつ私に心を開いてくれたクリフォードくんは、やがて魔法の訓練も上手くいくようになっていった。中でも魔力を安定させることができるようになってきたとのことで、公爵夫人から感謝の言葉を貰ったりもした。
そしてクリフォードくんが五歳、私が十五歳になるころには、周囲がクリフォードくんを見る目も、クリフォードくんの周囲への態度もかなり改善されていた。
その変化は、当然魔法の訓練にも表れる。
「あのね、今日はじめてお花が咲かせられたんだ! だから、アメリアおねえちゃんにあげようと思って」
「まあ、すてきね。私にくれるの?」
花を咲かせるのは、魔力安定訓練で基礎から応用に移るときの課題の定番だ。
「うん! それで……あのね」
クリフォードくんが、一輪のガーベラを私に差し出してくる。照れているのかその頬は赤く染まっていて、私は目が離せなかった。
本当に、まるで絵の中の天使みたい。
クリフォードくんは、まるで大人のように片膝をついて私を見上げた。
「──おおきくなったら、僕と結婚してください!」
「えっ!?」
私は驚いて、ガーベラと、クリフォードくんの顔を交互に見た。
クリフォードくんの赤い瞳は潤んでいて、一生懸命に考えて、本気で言ってくれていることが分かる。
ここで、勝手に受け入れるわけにはいかない。
クリフォードくんはオールストン公爵家の嫡男で、私は伯爵令嬢。私がここでお世話になっているのも行儀見習いのためで、家のための結婚をするのが貴族の家に生まれた娘としての責務だ。
それより何より、私とクリフォードくんの年の差は十歳。
とてもではないが、恋愛対象として見ることはできなかった。
「……ありがとう。でも、お姉ちゃんはクリフォードくんとは結婚できないかな」
「なんで!?」
「お姉ちゃんは来週には大人の仲間入りをしないといけないの。クリフォードくんは、同じくらいの歳の子と結婚するのがいいと思うな」
来週、私は社交界デビューが決まっている。そうしたら縁談だってくるし、きっとお父様もそのつもりだろう。
結婚したら、ここから出て行かなければならない。
そこまで話すつもりはないけれど、クリフォードくんだって王家と血縁なのだから、人見知りが改善したからにはそう遠くないうちに婚約者ができる。
「きっと、お姉ちゃんなんかよりもずっと綺麗で可愛い子だと思うよ。ね?」
クリフォードくんは黙って私の話を聞いて、それから姿勢を戻して立ち上がった。
「わかった……でも、このお花だけはもらって。お姉ちゃんにあげたくて、咲かせたんだから」
「うん。ありがとう」
受け取ったガーベラは、自室の花瓶に生けた。
なかなか枯れてくれないのを不思議に思ったが、魔法で咲かせた花ならそういうこともあるだろう。
そう思って、毎日水を替えて、窓辺に飾っていた。
そして、社交界デビューをして、一年。
クリフォードくんは六歳、私は十六歳になった。
私とクリフォードくんはあの日のことなどなかったかのように、これまで通りの関係でいた。
子供の頃というのは、一度は年上の異性に憧れるものだ。私も、親戚のお兄ちゃんに憧れていたことがある。すっかり懐かしい思い出で、その人は今二児の父だ。
そしてある日、公爵夫人に呼びだされた。
「あなたに手紙が届いているわよ」
「奥様のところにですか?」
「ええ。縁談がまとまったそうよ。……せっかく仲良くなったのに寂しくなるわね。でも……おめでとう」
正直、いつかは結婚をすると思っていた。
しかしこんなに早いとは思わなかった。
「あ、ありがとうございます。父に返事を書かないといけませんね」
「あら、嫌な相手なら断ってあげましょうか?」
公爵夫人が戯けた顔で言う。
しかし私も、貴族の家に生まれた者としても覚悟はずっと前からしていた。
「いいえ。決めていたことですから、大丈夫です」
早足で手紙を持って、自室に戻る。
結婚相手は、三歳年上の伯爵だそうだ。
紡績技術の発達している領地で、綿花を栽培しているフィンリー伯爵家に技術提供を申し出てくれているらしい。
特に変な噂がある人物でもないようで、日を選んでオールストン公爵家を辞し、家に戻って結婚の準備をするようにと書かれている。
「そう、よね」
結婚に本人の同意などいらない。家と家との結びつきなのだから当然だ。
当然のことだけれど、小説のようなロマンチックな恋愛に憧れる心は、少し寂しさを感じていた。
それから二週間後。
先に私物を馬車でフィンリー伯爵邸へと送っていた私は、小さなトランク一つだけを持って、オールストン公爵邸の玄関にいた。
クリフォードくんから貰ったガーベラはまだ枯れていない。うっかり髪飾りまで実家に全て送ってしまったため、代わりに今日はそのガーベラを髪に挿していた。
懐かしくなったのだ。
幼い子供の一瞬の憧れだったとはいえ、誰かにあんなに真剣に正面から求婚されたことは、あの一度きりだったから。
「──お世話になりました」
「これまでありがとう。これ、良ければ使って。結婚しても、ピアノは続けないと駄目よ」
公爵夫人がくれたのは、今流行中のブランドのハンドクリームだった。
「ありがとうございます。はい……続けたいと思います」
そうは言っても、それは夫となる人次第だろう。内心でそう思いつつも、私は笑顔で頷く。
公爵夫人には本当にお世話になった。
社交界デビューができるまでに私を鍛えてくれたのは、間違いなくこの人だ。
「元気でね」
「ありがとうございます、旦那様」
公爵も見送りに来てくれている。
クリフォードくんの心を開いた私に感謝してくれていて、ここにいる間本当によくしてもらった。
「ほら、クリフも挨拶しなさい」
公爵の後ろから、クリフォードくんが顔を覗かせている。
初めて会ったときには四歳だあった男の子は、今では六歳。まだまだ子供だが、それでもかなり大きくなった。語彙も増え、言動は理性的になった。
かつてのように魔力安定ができないなんてことも、ここしばらく言われていない。
クリフォードくんの瞳には、涙がにじんでいる。
「クリフォードくん、ありがとう。お姉ちゃん、楽しかったよ」
私は屈んで、クリフォードくんと目線を合わせた。
「お姉ちゃん、結婚しちゃうの?」
「……それは、うん。でも、大丈夫。クリフォードくんにも、きっと素敵な──」
私が話している途中で、クリフォードくんの瞳からは涙がぽろぽろと落ちてくる。
これまでに見たことがないくらい、思いっきり泣き始めてしまった。
「ちょっと、クリフ。あなたそんなに」
驚いているのは公爵夫人だ。
クリフォードくんから求婚されたときに念のためにと話をしていたとはいえ、まさかこれほどとは思わなかったのだろう。
とはいえ、私も驚いていた。
あれから、何事も無かったように今日まで過ごしていたのだ。まさかまだこんなにも想われているなんて、考えもしなかった。
でも、きっとこれも思い出になるだろう。
私が別れの言葉を言おうと口を開こうとした、そのとき、クリフォードくんが一際大きな声で泣いた。
「いーやーだーっ!! 僕、アメリアお姉ちゃんと結婚するのー!!!」
目を開けていられないほどに眩しい光が、公爵邸の玄関ホールをいっぱいに満たす。
魔力が安定せず、暴走してしまったのだ。
「クリフォードく──……」
瞬間、強い眠気に襲われた。
何が起きたのか、分からなかった。
分からなかったけれど、私はそれに抗えず、意識を手放すことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「──ごめんね、アメリアおねえちゃん」
僕が語りかけるアメリアおねえちゃんは、今日も綺麗な顔のまま、透明な水晶の中で眠っている。
「でも、起きるの、待ってるから」
アメリアおねえちゃんが家を出る日、僕は悲しくて、苦しくて、仕方なかった。
僕がアメリアおねえちゃんと結婚できないことは知っていたけど、それでも、目の前で知らない男に嫁いでいこうとするアメリアおねえちゃんを見たら、感情が抑えられなかった。
もう会えなくなる。こんなにそばにいたことも嘘みたいに。
十歳離れているから。もっと歳が近くて可愛い女の子と結婚できるから。そう、アメリアおねえちゃんは言っていた。
でも、それでも、僕が結婚したいのはアメリアおねえちゃんだった。
どうしても、アメリアおねえちゃんでなくてはいけなかった。
あのとき、倒れたアメリアおねえちゃんはどこからか現れた水晶の中にあっという間に閉じ込められてしまった。水晶はまるで死者を弔うために使う棺のようで、僕はそれを見て意識を手放した。
目覚めてすぐ、僕は、お父さまの部屋に呼び出された。
厳しい顔をしたお父さまは、水晶に閉じ込められたまま眠っているアメリアおねえちゃんを王城の魔道士達に見せたらしい。しかし、魔力が暴走して発動した魔法は強い感情が引き金となっているため、強い魔法だった。
六歳とはいえ、僕の魔力は多くて、魔道士にも解くことができないとのことだ。
僕が使った魔法は、十年間、アメリアおねえちゃんの時間を止めるものだった。
アメリアおねえちゃんは十年間あの水晶の中で眠り続けるのだ。
アメリアおねえちゃんに与えられたのは、公爵邸の中でも上等な客室だった。
両親がアメリアおねえちゃんの親に謝罪していた。
アメリアおねえちゃんの親は、水晶の中で眠る姿を見て泣いていた。
僕は初めてお母さまに叩かれた。
「──でも、僕、毎日おねえちゃんとお話ししにくるから」
アメリアおねえちゃんの縁談は無くなった。
十年も眠り続ける娘を待っていたら、年の差が大きくなりすぎてしまう。
そもそも、本当に目覚めるかも分からない。
一年後、僕とアメリアの婚約が決まった。人生を台無しにしたのだから、責任を取って結婚しろと言われたが、僕にとっては嬉しいばかりだ。
僕とアメリアの年の差は、九歳に縮まった。
「今日は、この本を読んであげようと思うんだ」
僕は毎日アメリアの部屋に通い、時間が許す限り語りかけていた。
「最近流行っているお話なんだって」
僕は興味が無い恋愛小説も、アメリアが退屈しないようにと読んであげた。きっとアメリアは聞いていると信じていた。
十二歳になると、本格的に未来の領主としての勉強が始まった。
アメリアの側を離れなければいけないこともあった。
僕の身長が、アメリアを超えた。
「今日から、領地に行かないといけないんだ。いない間も、毎日花を贈るからね」
そして僕は、本当に毎日花を贈った。
タウンハウスの使用人は僕の気持ちを汲んでくれて、毎日アメリアの側に花を生けてくれていた。
ひと月ぶりに帰ってきたとき、アメリアはたくさんの花に囲まれていた。
「ただいま、アメリア。僕の魔力で咲かせた花、枯れなかったでしょう?」
アメリアの髪には、僕が初めて咲かせたガーベラの花が一輪挿してある。
「アメリアが喜ぶようにって、たくさん咲かせたんだよ」
アメリアは、変わらず水晶の中で眠っている。
目を開けることも、あのピアノの音を聞かせてくれることもない。
「……笑ってくれたら、いいのに」
僕が好きになったアメリアは、屈託のない、綺麗な笑顔をしていた。あの表情を僕だけに向けさせたかった。知らない男に見せたくなかった。
僕が行けない社交界で、着飾ったアメリアがどこかの大人の男に笑いかけていると思うだけで、吐き気がするほど不快だった。
今、アメリアは僕だけのものになったのに。
「どうして、こんなに寂しいんだろう……」
子供の僕に色々なことを教えてくれたアメリアなのに、今は答えをくれなかった。
そして、十三歳、十四歳、十五歳。
私はそれでも、毎日アメリアに語りかけた。
本を読み、学んだことを話し、未来を語った。何でもないことも、アメリアが聞いていると思うと嬉しかった。
十六歳の誕生日、面倒なパーティーを抜け出して、アメリアの部屋に行った。
「……私のこと、アメリアは嫌っているかな」
アメリアの寝顔は安らかで、それだけが私の心を少しだけ穏やかにしてくれた。
「本当は、こうやって話しかけるのも、意味はないと知っているんだ。魔道士から聞いたし、私も調べたんだよ。……水晶の中の眠りは、時間を止めているから、アメリアには何も届かないって」
栗色の髪は緩く波打っていて、さらさらと風に靡くと柔らかさが一層際立っていた。
くるくると変わる表情と共に、輝きを変える青い瞳が好きだった。
「この瞳が、私を見ないまま……もう十年」
手を伸ばして触れた水晶は、ひんやりと冷たい。温かい肌に触れられたくないと拒むように、そこには決定的な隔たりがあった。
しかし社交界に出てよく見かける青い瞳のどれも、あの頃のアメリアの瞳の輝きには敵わない。
「それでも、アメリアの瞳が一番綺麗だって、言える」
思い出が美化されているのだろうと、噂をされていることは知っている。
あまりに非常識な事件であったため、アメリアがここで眠っていることは貴族であれば皆が知っている。
王家は教会と話し合い、アメリアにだけ年齢計算の特例を適用してくれた。
アメリアが目覚めたら、私とアメリアは同い年だ。
もう、子供だからと求婚を断られることもない。
責任を取るためでなどなくても、私はもう、十二年前からアメリアしか見えていない。
「──誰にも奪わせないから、起きて」
私の世界で、アメリアだけが女性だった。
そして、季節は巡る。
やがてアメリアが出て行こうとした、秋がやってきた。
私は毎日、アメリアの元に通った。
「愛してる」
「好きだよ」
「起きて」
「起きて」
「頼むよ……」
いつ起きるか分からない。
起きたとき、絶対に側にいたい。
その一心で、私は水晶の側で生活をするようになった。
机も、寝台も、運び込んだ。
両親は、もう、私を止めなかった。
◇ ◇ ◇
急に、身体が軽くなった。
闇に閉ざされていた瞼の向こうが眩しい。
目を開けるよりも早く伸ばした右手が、温かく、固い手に握り返される。
「──……アメリア?」
低い声だ。
爽やかな風が頬を撫でていく。
その感覚で、私は、長い眠りの終わりを悟った。
「う……ん──」
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
明るい部屋に、僅かに開いた目をまた閉じた。
少しずつ慣れてきた明るさに、何度か瞬きをした。
目の前には、黒い髪に赤い瞳の美丈夫がいる。
「アメリア……!」
それが成長したクリフォードくんだと理解するまでに、時間はかからなかった。
「……十年、経ったのね」
それだけの時間に相応しい成長だ。
私よりも大きくて固い手が、これまでの努力と成長をまざまざと突きつけてくる。
クリフォードくんは、起き上がろうと上体を起こしかけた私を、両手で思いきり引き寄せて抱き締めた。
逞しい胸板に、起きたばかりなのにまた意識が遠のいていってしまいそうだ。
「ごめん、ごめんなさい。アメリアおねえちゃん……!」
声は違うのに、顔も変わったのに、本質は変わっていない。
クリフォードくんは、私よりも大きな身体で、私を思いきり掻き抱いたきり離してくれなかった。
私も、何も言えなかった。
ただ、クリフォードくんがまるで当時のようにしゃくり上げて泣く声が、耳に残る。
「……私が眠ってしまう前も、貴方は泣いていたわね」
「だ、だって──」
だって何だと言うのか。
私はそんな場合ではないというのに、可笑しくて小さく吹き出して笑ってしまった。
瞬間、クリフォードくんがばっと私を引き剥がして、正面から顔を覗き込んでくる。
「な、何?」
「アメリアの笑顔が、ずっと見たかったんだ」
驚いて硬直した私に、クリフォードくんは涙を湛えたままの瞳で満面の笑みを作った。
それはまるで天使のようで、同時に悪魔のようでもあった。
黒髪と赤い瞳が、感じてはいけない多幸感を私に与える。
怒らなくてはいけないのに。
「──生涯愛し抜くと誓う。だから、私と結婚して。アメリア」
私の肩を両手で掴んだまま、貴族的でも紳士的でもない姿勢で、飾り気のない必死な表情で、クリフォードくんが私に求婚する。
周囲には、室内とはとても思えないほどの花がある。これは、クリフォードくんが魔力で咲かせてくれた花だ。
積み重ねてきた、やっと見ることができた、私への贈り物。
「──……やっと、見ることができた」
クリフォードくんが後悔していることも、反省していることも知っていた。
花をくれていたことも、聞いていた。
そして、どうしようもなく私を愛し続けてくれていることも、知っている。
「ええ。私で、よかったら」
防御魔法ばかり練習していたことが幸いしたのか、災いしたのか。どちらだったかは分からないけれど、私は、クリフォードくんが魔力を暴走させたとき、無意識に防御魔法を発動していた。
そのため、あの水晶の中で長い眠りの中にいながらも、意識があったのだ。
とはいえずっとではない。声が聞こえたり物音がしたりする度に、ふっと意識が浮上するような感覚だ。
最初は、物語の音読をする声だった。
やがて、日々の出来事を報告する声に。
そして声変わりを経て、男性らしい低く落ち着いた声に。
そんな声で私に、毎日愛を囁き、謝罪を繰り返す。
「本当に?」
あの言葉は、こんな表情で言っていたのか。
音だけだった世界に、あっという間に色がついていく。
「……逃がしてくれるつもりはないんでしょう?」
溜息交じりに苦笑すると、クリフォードくんがまた私を抱き締める。
その腕の中で、私は、こんなに愛されているのだから幸せになれるよね、と、自分を納得させるような言葉を繰り返し考え続けるのだった。
連載中長編「伯爵令嬢ミシェルの結婚事情〜貧乏神令嬢は3度目の買い取り先で幸福な恋を知る〜」は5月9日より第3部の連載を再開しました!
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