87.救いか絶望か
場面は戻ります。ここからは真紘視点です。
先生の足は速かった。
俺は不意をつかれたと言えどほぼ並走ができたが、南条さんと雪花さんは置いてきぼりだ。
たまたま他の住人が扉を開けたタイミングであったこともあり、先生は迷わずそこに滑り込んだ。住人は何が起きたのか理解できず目を白黒させていた。
「詳しいことは後ろ2人に聞いてください!」
「日笠くん!? え、東雲さん!?」
どうやら顔見知りだったらしい。
住人が通ることなく、俺たち2人が通った扉は閉じてしまった。
エレベーターは上階、先生は迷わず階段を選択した。彼女の部屋は3階だ。
耳を澄ますと、不気味な怒鳴り声が聞こえる。
「なんでなんでなんで、あの時から俺に笑顔を向けてくれないんだ! アイツらにばかり、なら、君が言った通り体を手に入れれば彩明ちゃんは俺を見てくれるのか!」
経緯は知らないけど身勝手すぎる言葉だった。
先生が先んじて角を曲がり、部屋に突入した。俺も倣って入ったが、目の前の光景に驚き、血が昇っていた頭は急に冷えた。
先生が彩明さんに跨る羽柴を蹴りで吹き飛ばした。何でか俺は綺麗な跳び蹴りだなぁと的外れなことを考えていた。
そして、先生はそのまま通路で呻く羽柴に馬乗りになった。
俺の頭の中では、半分が何をするんだろう、半分は止めなきゃまずいかな、という思考がぐるぐると駆け巡っていた。
だが、その辺りは行動に繋がらなかった。
俺は上着を脱いで薄着になっている彩明さんに被せた。赤く腫れた頬が痛々しい。彼女はひどく引き攣った笑みを無理矢理作った。
「すみません。とりあえず離れます。」
「あ、ありがとう……。腰が抜けちゃって。」
先生のことは置いておいて、1分1秒も早く彼から彩明さんを遠ざけたかった。
俺が彼女を抱えて外に出ると入れ違いで雪花さんと南条さんがやってきた。
「東雲は!」
「中に。」
「東雲、やりすぎだ!」
声を荒げた南条さんが慌てて飛び込んだ。
俺は中を覗くまでもなくどうなっているかは想像できた。自分の経験から、記憶がなくても体が覚えていることを知っていたからだ。
記憶はなくても死因に対する恐怖やどうしようもない怒り、大切な人への慈しみ。あるべき身体のない絶望も。
だから、先生もたぶん穏やかな心の中に持っていたのかもしれない。犯罪者への、大切な人を苦しめた相手に対する憎しみを。
南条さんが止めたが、すでに中は惨状だろう。
俺が少し離れたところで目を細めていると、中を確認したらしい雪花さんが、なぜか表情を和らげて俺たちに声をかけた。
「警察も来るし、私たちはエントランスに出ておこうか。アンタも彩明のこと運んでね。」
「はい。」
「ごめんね……。」
弱々しく謝った彩明さんの言葉に俺はやっと雪花さんの態度の理由に気づく。彼女を少しでも安心させたかったのだと。
先生と南条さんが現場にいる今、腰の抜けた彩明さんを運べるのは俺だけだ。
サイレンの音を聞きながら俺は改めて横抱きに抱え直すと、雪花さんに促されるままにエントランスに出た。
ちょうど先ほどの住人さんが警察を呼び、中に誘導している所だった。中には、戸張の時にお世話になった人たちもいた。
俺が会釈すると、憔悴した彩明さんと殺気を抑えきれていない雪花さんの様子を見ておおよその状況を把握したらしい。警察官の表情で軽く礼をされた。
おそらく監視カメラの中を確認する時に協力してくれた警察官の情報もあったのだろう、女性警官も来てくれたみたいで、エントランスの角に座り込む彼女に優しく声をかけてくれた。
まだ、足に力が入らないのか、彼女と警察官はそのまま話していた。何発か殴られたらしい頰を氷嚢で冷やしていた。
そこで俺は気づいてしまった。
男性に暴力を振るわれたのに俺がいたらダメではないかと。そもそも運んだのもアウトに近かったのでは?
俺がすす、と離れるとそれに気づいた彩明さん達が笑っていた。
「真紘くんは離れなくて大丈夫だよ。」
「アンタ、相変わらず時々不思議な遠慮するよね。」
「いや、時々って何すか! というか、当然の配慮だと思うんすけど……。」
「そういう心遣いはしようと思ってくれるだけでも救われるものですよ。日笠くん、ありがとう。」
「へへぇ……。」
「きも。」
何だか照れ臭くなってしまい、気持ち悪い笑い声を漏らした所、雪花さんからいつもの鋭い視線を浴びせられた。
冗談を交えつつ話していると、少しばかり落ち着いたらしい。雪花さんの軽い支え程度で立てるくらいになった。
「私たちは警察署に行きましょうか。」
「はい。」
「俺、残って先生に伝えときますよ。彩明さん、雪花さんの家泊まるんすよね?」
「えっ、申し訳ないよ!」
彩明さんは慌てて手と首を横に振るが、雪花さんが呆れたようにため息をついた。
「あの部屋は警察が入るから今日は泊まれないよ。それに、こんな時に言うのもアレだけど、アンタと泊まるの、嫌じゃないんだよね。」
「雪花ちゃん、ありがとう〜……。」
彩明さんは眉をハの字にして嬉しそうにしていた。
ただ、いつもの彼女なら抱きついてもおかしくないだろうに。
俺は指摘をすることなく、3人を見送った。
それから数分後か。
明らかに怒りを滲ませた先生と呆れながらもどこか悔しげな表情の南条さんが戻ってきた。待っていた俺の姿を認めると、先生はすぐに申し訳なさそうな表情に変わった。
「ごめんね、さっきは取り乱して。」
取り乱すのレベルじゃなかったと思うけど。
俺はその言葉を飲み込みながらも、何とか返答を絞り出した。
「その、最悪だけは避けられて良かったです。」
「……うん。」
「あと、キック、良かったです。」
「そう?」
痛々しい顔を見ていることが耐えられなくて思わず冗談を言ってしまった。南条さんはそれを理解してくれたようで、わざとらしく俺の頭を軽く叩いてくれた。
ほんの少しだけ空気が緩んだのも束の間、マンションの中から騒ぎ声が聞こえた。
はじめは羽柴が抵抗しているのかと思った。
だが、耳を澄まして内容を聞いてみると、悍ましいことを口走っていた。
「薄石ィ、彩明はァ! 現世でも、この世でも俺と結ばれる運命にある!」
「黙りなさい!」
警察官が抑え込むが彼は止める気配を見せない。
この時の俺は何を意味の分からないことを喚いているのかと軽蔑するだけだった。だが、先生と南条さんは露骨に表情を変えた。
そして、羽柴はさらに気味の悪いことを叫び続けた。
「彩明ちゃんがこの世界にいる限り俺はずっと君を守り続けるよォ! 何日何月、何年かけてでも君の心を手に入れてみせる! 俺は彩明ちゃんを愛している!」
「黙れ!」
警察官が数人がかりで止めるが止む気配はない。
と、同時。隣にいた先生がスタスタと羽柴に近づいていく。そして、拳を握った時点で俺はつい目を瞑って顔を背けた。
先生の方からは鈍い殴打音が聞こえ、それと同時に羽柴の声は止んだ。
「……自分が負けたのが悔しいか?」
「そうだね。」
「彩明ちゃん、いや、神様が選んだのは俺だからなぁ!」
「……ふふ、お前はそんなレベルで僕が争ってると思ってるのか?」
珍しく露骨なマウントをとろうとする先生の声は低い。そして、明らかに侮蔑の色を滲ませていた。それは相対する羽柴からすれば容易に感じ取れるだろう。
羽柴の表情が少しばかり理性を取り戻したように見えた。
そして、先生は吐き捨てるように言った。
「僕はたとえ犯罪者だとしても、僕はその罪を償おうとする人間や償う機会をまだ得られていない人に対しては最大限の敬意を払うし、その存在を守る。
でも、それを君にしてしまったことをひどく後悔しているよ。」
この人は、多分最期まで警察官だった。
犯罪者を嫌悪しながらも、羽柴に贖罪の機会があればと願っていたのだろう。
一瞬だけ、羽柴が残念そうな顔をした気がしたが、すぐに狂った表情に戻ってしまった。
「彩明ちゃんに伝えておいてください。
決して神様が僕たちを引き離しても必ず迎えに行くって。」
「聞かなかったことにします。」
「さっさと歩きなさい。」
警察に促されると羽柴は小さく笑いながらおぼつかない足取りで車へと連れて行かれた。
これで戸張周辺の事件は一通りかたがついたか。俺は安堵の息を漏らした。
「先生、南条さん、ありがとうございました。これで彩明さんをはじめ、みんな元の生活が戻ってきますね。」
「だといいがな。」
「え?」
俺がわざとらしく言うと、南条さんはなぜかマンションを見つめながらそう呟いた。
俺にはその意味が分からなかったが、先生には伝わったらしい。特に答えることなく、少しだけ俯き、それから切り替えて俺にいつもの笑みを見せた。
「もう遅いし帰ろうか。」
「……はい。」
俺は『普段通り』を繕う彼らにそれ以上のことを言えなかった。
2人の言葉の意味を知ったのは翌日であった。
その次の日から、少しだけ遅刻してきた先生といつの間にか異動手続きを済ませた南條さん、どことなく不安そうな雪花さんがいた。彩明さんはさすがにどこかへ引っ越すそうで、それまでは雪花さんの家に居候するらしい。
そういえば、神様の謎の気遣いにより、泊まりに必要な荷物の一部が朝のうちに雪花さんの家に運ばれてきたそうだ。相変わらず変なシステムだ。
午前中、普段通り仕事をこなしてから役所に書類の提出に行った。
そこで俺は現状が平和と程遠い状況であることに気づいた。
こそこそ、ひそひそ。
その効果音がピッタリと言わんばかりに噂話が飛び交っていた。
ー聞いた、この前のストーカー事件?
ー可哀想だよね、変なやつに付き纏われて。
ーでも、被害者の子も犯人に色目つかってたんだと。
ー実は自分から招き入れといて、探偵さんに心配させるための自作自演だったとか?
ーえー、性格悪いわねぇ。
もちろん否定したかったが、ここで俺が口を出しても余計な噂が立つだけだ。ぐっと堪えた。
幸い、と言っていいのか分からないが、今日彩明さんは裏での事務仕事らしい。
俺がぼんやりと見ていると、遠くから加地さんが名前を呼びながらやってきた。
「真紘くん、何が久しぶり!」
「そんなに久しぶりですか? 千里さんが帰った時に会ったじゃないですか。」
「そうだけどさ、いやー、もう忙殺の日々よ。」
加地さんが肩を回すと、ペキペキと関節の音がした。元来仕事ができる人なのだろう、今や志島さんに差し迫る勢いで人気が上がってきていると聞く。
そんな加地さんが声を低く小さくした。
「彩明ちゃんにとって今ここ針の筵よ。あの子が住んでるマンションでストーカー騒ぎあったんだよね?」
「何で知っ……!」
加地さんが唇に人差し指を当て、静かにするようジェスチャーで伝えてきた。俺はそれに倣って声を潜めた。
「何であそこに住んでない加地さんとか、利用者の人が知ってるんですか?」
「その犯人、捕まった時に彩明ちゃんの名前とか、現世での話しながら大騒ぎしたんでしょ? そこに住んでる人たち、結構聞いてたみたいでね。」
「……なら、何で話が捻じ曲がったんですか?」
「ストーカーの人の頭に輪がなかったから、【半生人】なら覚えてるわけない、捏造だって。それで話は捏造だ、頭狂ってるだ、はたまた彩明ちゃんが誘惑したって。」
「……信じられない。」
俺もだ、と加地さんが頷いた。
「彩明さんの耳にも入ってますよね。」
「もちろん。でも、それよか、あの子は別のことで明らかにダメージを受けてるように見えたな。」
「別のこと?」
加地さんは頷いた。
だが、俺からすれば納得のできる理由だった。
「あの子の周りが、『大丈夫?』『辛かったら力になるよ』『薄石さんは悪くないよ』って。心配、の言葉なんだけど明らかに彩明ちゃんはダメージ受けてる。」
その経験は俺もあった。
足を失った時、周りの人たちに同情や励ましの言葉を受けて、怒りとか情けなさとか、ありがたみなんて全く感じられなかった。
ただ、俺はその経験を現世でした。黄泉の国に来て、何となく消化はできた。
でも、ここで同じような感情が生まれてしまい、心が壊れてしまったらーー。
俺は首を横に振った。その勢いで加地さんの顔面に頭突きしてしまったのは許してほしい。
加地さんは呻きながら顔を抑えた。
「石頭なのね。」
「すんません……。」
「大丈夫。ま、変な気持ち起きる前に蘇っちゃうのがいいと思うけど。斑目みたいなタイミングの良さはないよね、普通。」
ははは、と加地さんは乾いた笑いをこぼした。
それもそうだ。彼女のギフトは不運だ。
現世でも、羽柴のせいで不運な部分があったのなら。でも、先生との出会いが彼女にとっての幸運であったなら。
そんなことを願いながらも、俺は一度先生の元に向かうことにした。
彼と、彼女が振り返らないようにするために。
 




