75.斑目千里①
今回は真紘視点。疲れている彼は斑目のことを知り何を思うのか。
黄泉の国に基本雨は降らない。雨が降るのは稀な話だ。
いつもの時間に窓を開けて朝の空気を入れる。
こんな環境でよくぞ植物が育つものだ。以前、依頼人の人に勧められた観葉植物はすくすくと大きくなっている。
背伸びをしてみるが、ろくに眠れていない身体がペキペキと悲鳴をあげるだけである。
いつもなら欠伸をしつつも気持ちよく起きられるのに。
朝食は抜かない派の俺であるが、ここ最近はめっきり食欲がない。一応ゼリー飲料は口に入れてみるが、味がないような錯覚を覚える。
まぁ、現実の世界でもないし、適当でいいか。
仕事着を着ていつも通りの時間に出る。普段なら走って向かう通勤経路はやけにつまらないものに見える。俺はほとんど使うことのなかったバスカードを使い、最寄りのバス停に向かう。
ここ最近は妙にリアルな夢を見る。足を失った後、周りの人に同情されたり、気乗りしないリハビリに取り組む夢だ。
すでに夢のような世界にいるにも関わらず現実的な質感を持つ夢だ。現世窓とか記憶の世界を見なくても、こんな風に知ることもあるのか。いや、本当にあったことなのか知る由もない。
たとえ真実を知ったところで、周りの環境は変わらない。
余裕のある時間についた俺はぼんやりと空を見上げながら歩く。すると、背後から大きな声が聞こえた。
「よう、真紘!」
「あれ、おじさん。」
声の主の方を見ると、懇意にしている青果店のご夫婦がいた。彼らは俺の顔を見て嬉しそうに手を振る。
「最近走ってねぇな。忙しいのか?」
「ああ……そっすね、まぁ。」
「そっか、そんな気分もあるわな。ほれ、林檎だ。持ってけ。」
「いや、今日手伝いしてないじゃないっすか。」
「バッカお前! そのためだけのモンじゃねえわ!」
「イダッ!」
ゴン、と鈍い音とともに頭頂部に痛みが走る。
いい音がした上、俺も結構な悲鳴をあげてしまった。
「お前さんが助けたから礼をする。逆に俺がいいことをすれば真紘、いやもしかしたら思わぬところからいいものが転がってくるかもしれない。」
「……何すかそれ。」
「いいこと悪いことは俺とお前の間で完結するものばかりじゃない、色んなところに縁は転がってるってことさ。」
「……難しくてよく分からないんすけど。」
そう言いつつも俺は以前あったわらしべ事件を思い出す。事件というほど事件ではないが、思わぬところで自分の善行が思わぬ礼として返ってくる。
何とも言えない気持ちのまま、もらった林檎を見つめていると、店の奥からドタドタドタと騒がしい足音がした。
「げ、母ちゃん!」
「真紘くんの悲鳴、家まで聞こえたよ! アンタが殴って頭がどうかなったらどうするんだい!」
「いっだぁ!」
おばさんの拳がおじさんの脳天に直撃した。
転がってきたのはいいことではなくおばさんからの叱咤だったらしい。俺は相変わらずな2人に苦笑いをした。
ほんの少しだけマシになった気持ちは探偵事務所に行ってすぐに打ち砕かれる。
「は……今なんて?」
俺は出勤した途端、想像していなかった依頼を告げられた。
「斑目くんに『パンドラの鍵』が出た。彼からの依頼で、記憶の世界と現世窓の確認へ同行するよ。」
何で何で何で。
俺は頭の中で大混乱に陥っていた。
先日、戸張の言葉を聞いてから俺はどうも調子が狂っていた。
俺のギフトは左脚。
普通なら戸張の嘘だと思うだろう。だが、俺は戸張の言葉が嘘だとは思えなかった。戸張は嘘をついている男の目ではなかった。
それに左脚の違和感、俺は薄々感じていた部分があった。
基本的に亡くなった時の身体を反映するというが、左右の脚で何となく違う感じがあったのだ。ずっと黄泉の国に来た仕様だと思っていた。
でも、違った。
仕事を無理矢理こなした。笑顔を貼り付けて。
食欲はどんどん消えていくし、眠れない夜も続く。仕事以外何もする気力が湧かない。
そんな矢先、左脚を失った後の夢を見た。この世界で【半生人】である限りあり得ないはずであるが、俺は過去の記憶だろうと思った。俺にとっての苦痛、周りの気遣いは俺を追い詰めるのに十分なものであった。
次第に自分が生きる意味も、目指していたものも分からなくなって。
いっそ探偵も辞めて、消えてしまおうか。
そう思っていた矢先、千里さんに『パンドラの鍵』が浮き出てしまうなんて。
「俺は……。」
「やめる?」
俺の思考を読んだように雪花さんが先手を打った。
露骨に身をこわばらせてしまう。
雪花さんの方を見ると、普段の依頼の時と同じような冷静で落ち着いた様子で準備をしていた。
「アイツが飾り気なく頼んできた依頼で、東雲と私、そしてアンタと一緒に記憶を見たいって言ってきたんだ。……南条のことも頼れたはずなのにね。」
「なら、南条さんに頼んだ方が。」
「日笠。」
雪花さんに握られて初めて気がついた。
自分の手が異様に震えていることに。
「アンタに余裕がないことは分かってる。そこまでアンタが頑張ってくれることを見越して私達が頼ったせいだっていうのも分かってる。本当にごめん。」
「そんなことないっすよ! これは俺が勝手に……イダッ!」
鋭い痛みが額に走る。
これは受け慣れたデコピン、のはずだが今までの比にならないくらい痛い。思わず呻きながらしゃがんでしまう。
今日は散々痛い思いをしている気がする。
「でも、私はーー。」
「そこまでだよ、雪花さん。」
雪花さんの言葉を止めたのは先生だった。
先生はいつもと変わらない笑顔でーもしかしたらそのように見えるよう努めてくれていたのかもしれないー、俺に問いかけた。
「依頼人第一も大事だけど、君はどうしたい? 斑目くんは断っても怒らないと思うよ。」
「俺は……。」
千里さんが何かを決める瞬間を見たくない。
一瞬浮かんだそんな考えを振り払うように俺は大きく首を横に振った。
「やります。やらせてください。」
「……分かった。」
先生は頷くと今回の依頼の内容を見せてくれた。
おそらくこの字は彩明さんだ。それにしても。
「『過去の記憶の世界および現世窓の確認』だけ、すか。」
「一応届いてから僕も聞いたんだけど口頭でもまるで同じことしか言わなかったよ。」
らしいと言えばらしいが。
この時の俺は呆れながらも周りの様子なんて目に入らなかった。
その時の先生や雪花さんの表情がどんなものであったか、全く記憶になかったのだ。
その日の午後、役所に行った。俺だけでなく、先生や雪花さんも口数は少なかった。
役所に来たのは戸張の事件以来だ。
受付に座っていた加地さんの前の利用者がちょうど席を立った。不意に目が合った加地さんは席を立つとこちらに向かって走ってきた。
「久しぶり、真紘くん!」
「ああ、お久しぶりです。」
「なーんだ、疲れてるな! ま、そうか。今回は斑目だもんな。」
加地さんは俺の肩を叩きながらうんうんと頷いている。
「こっちもてんてこ舞いよ。実際、データ管理課の仕事ができる奴が1人抜けた上に斑目だ。アイツも朝一から物凄い勢いで引き継ぎしてるんだよな。」
「え、引き継ぎ……?」
引き継ぎをしている。
すなわち千里さんはすでに甦ることを決めているということだ。
「そ「無駄口叩いてないで手を動かしなさい!」
さらに話を続けようとした加地さんの頭上に分厚いファイルが落ちてきた。背後を見るといつも和やかに声をかけてくれていた役所のおばちゃんがいた。
この人、平然とフロアを闊歩しているが、役所のトップだというのだから驚きだ。作戦前に彩明さんに聞いて初めて知った。
「全く、ただでさえあの子が隠し持ってた仕事のせいで引き継ぎに割かれる人数が多いんだから。黄昏事務所の皆さんも待たせてごめんなさいね。」
「いえ、いつもお世話になってますから。」
「あの事件のことも感謝しているわ。放っておいたら役所が役所として機能し続けることができないから。……斑目くんのこともよろしくね。」
おばちゃんは視線を伏せながらも、たんこぶを作ったらしい加地さんを引きずっていった。逞しいな、本当に。
俺は軽く会釈し、相変わらずの2人を見送った。
その2人とすれ違いで、呆れ顔の千里さんと彩明さんがやってきた。
彩明さんは仕事着だが、千里さんは休みの時と同じ服装でリラックスしたような様子だった。
「すみません、待たせて。」
「本当だよ。相変わらず時間守らないね。」
「雪花と違って忙しいんだよ。」
お決まりの睨み合い。
だが、俺は止める気力もなく2人のやり取りを見守るだけだ。
珍しく動いたのは先生だった。
「2人とも。部屋の予約の時間が差し迫ってるんだからここで言い争いしないよ。」
「「……。」」
2人とも視線を逸らして無言を貫いた。
何だか変わんないなこの人らも。
そう思いながら千里さんの右手を見ると見覚えのある『鍵』が煌々と光っており、まさに今カウントダウンを行なっていることを思い知らされる。
それをずっと見つめていると不意に千里さんと目が合う。
「……久しぶりっすね。」
「そうだね。というか、断らなかったんだ?」
「……断ってほしいようにも聞こえるんすけど。」
千里さんはふっと笑った。
「断ってもよかったんだよ?」
「断るわけ、ないじゃないっすか。」
俺が吃りながら答えると千里さんの目から笑顔が消えた。この目は、戸張が千里さんを狙って起こしたワゴン事件の時と同じ目。
もしや怒っている? 何で?
俺は意味が分からず、動きを止めてしまった。すると千里さんは俺の胸を指差し、真っ直ぐに言った。
「真紘なら俺の感情、多少気づいてるよね。」
「……。」
「申し訳ないけど、手荒に行くよ。」
あまりにも強い千里さんの言葉に身体が震えた。
勝負前の武者震い? いや、心のどこかで千里さんに抱きうることのないはずの感情が滲んだ気がした。
「お手柔らかに……?」
なんとなく俺が返すと、千里さんは少しだけ悲しげに笑うと踵を返し、慣れた足取りで過去の記憶の世界を見る部屋に向かう。
この時の俺はいかに自分のことしか考えられていなかったか、はたまた自分が子どもでしかないか知る由もない。
先生が、雪花さんが何を想っていたのか、千里さんは自分の過去を利用して何をしようとしていたのか、到底思考は及ばなかったのだから。




