72.生きるも堕ちるも地獄 ※
残酷な描写が続きます。
また不快な表現があると思われますのでご注意ください。
今回はちょっと短めです。
記憶のない中でも俺は何となく覚えていた。
俺は何よりも走ることが好きで、時々思い出される勝負への心掛けは身近な人物がずっと教えてくれていたものなのだろうと。
きっと過酷な環境で練習をしていたんだと思う。故の勝負強さだったと思う。
それを日に日に感じている中で、甦ったとしてもまたそんな日常に戻れる、自分の中には確かな芯があるのだと信じて疑わないようになっていた。
だから、どんな辛い事例があっても、心を揺るがされるような事件が起きても、心を保つことができていた。
でも、俺に脚はない。
その意味するところはーー。
「日笠くん、逃げろ!」
「え、」
「遅いよ!」
先生の叫び声でふと我を取り戻した。
すでに弾切れらしく、意味をなさない銃は戸張の手から捨てられていた。代わりに戸張は俺の足をがっちりと掴んでいた。
振り払いたいのに左脚の力が入らない気がする。動くのに、逃げられない。
「俺の左脚は確かにある、ふざけんな!」
「ふざけてなどいない! 確かに僕は君の現世窓の映像をハッキングして見たんだ! 事故で左脚を欠損し、自害を企てた結果、病室に眠ることになった君の体と、それを嘆く家族達を!」
ひゅ、と息が止まる。
戸張は容赦なく続ける。
「君の家族は素人の僕でさえ見覚えのある有名な陸上選手のようだね! そんな家族ならきっと、今の君に絶望するだろうね、見捨てたくもなるだろう!
そんな身体になった君を!」
思わぬ言葉に俺は何も反応できなくなる。
そんなの、あり得ない。
そう思う一方で、不意にある記憶が呼び起こされる。
ーかわいそう、飲酒運転だって。
ーせっかくここまで育て上げたのにこんな馬鹿げた事故なんかで……。
ーこの子はもう走れない。
俺は大きく頭を横に振った。不毛な考えを振り払うように。
例えそうだったとしても、今はそれどころではない。戸張をどうにかするのが先だ。
「離せ!」
「離すかよ、君は僕と一緒に地獄に落ちる! 僕は初めて、誰かを地獄に道連れにした『特別』になるんだ!」
狂っている。
そう感じた時、頭の中に聞き覚えのある荘厳な声が響いた。
『戸張半宵よ、お前は罪を重ね続け、償うこともせず、多くのものを奪い続けた。』
「はは、そんな特別な人間をつくったのは貴方でしょう、神様!」
『地獄に落ちて魂を浄化せよ。』
「地獄に落ちれば特別な存在の僕の魂は生き続ける、さぁ、さぁ、さぁ、落とせよ!」
会話が全く成り立っていない。
戸張の周りには、馬路が業の証を刻まれた時と同じように黒い蔦が顕現する。
だが、あの時の比ではない量だ。
刺々しい蔦は戸張の身体に巻きつき、皮膚に食い込む。
そして彼の全身を引き摺り込むかのように地面に黒い口がぱっくりと開き、戸張の身体を侵食し始める。その暗い入口からは想像もしない、怖気の走る音が聞こえる。
「さぁ、共に落ちよう日笠くん!」
「日笠くん、振り解いて!」
もちろん抗っている。
抗っているのに力が入らない。
蔦が巻かれた両手が俺の手を掴む。半身引き摺り込まれているにもかかわらず戸張の力は次第に強くなっているように感じられた。
俺は地獄に引き摺られないように必死に床を掌で押さえつける。
まずい、無理かも。
皮膚の痛みに耐えられず声を漏らした時だった。
「真紘!」
足元の方に引き摺られていた身体が急に後ろに引っ張られた。細く長い腕が俺の身体をしっかりと掴み支えてくれた。
「邪魔するなアァァ!」
「日笠くん、目を瞑って!」
先生の声に俺は咄嗟に目を瞑った。
それと同時に何か重い物を床に叩きつけるような音、そして戸張の断末魔が聞こえた。痛みに耐えられなかったのか、足が急に離されたせいで、俺と千里さんはそのままひっくり返った。
「ここです!」
入口から聞き覚えのある高い声が聞こえた。
戸張はそれに気づいたのか、醜く歪んだ顔を上げると強固に縛っているはずの蔦に抗い、もう一丁の銃を取り出した。
だが、発砲される前に彩明さんが連れてきた警察官の銃により撃ち落とされ、戸張の銃は床に転がった。
「クソ、クソ、あと少しだったのに……。」
ほぼ顔と右腕になっただけの戸張は悔しげに呟いた。
だが、俺と目が合うと、気味の悪い笑みをこぼした。
「ああ、まぁ、いっか。君のそんな顔を見られたなら。」
それだけを言い残すと、戸張は静かに闇に飲まれていった。
「東雲さん!」
「早く、止血を!」
「死なないから大丈夫ですよ……。」
「「そういう問題じゃない!」」
少し離れたところで先生が肩で息をしながら彩明さんと警察官の人に怒られていた。
足元には救助の時に使う探査機が粉々に砕けて転がっていた。あれを戸張に叩きつけたらしい。先生のあの一撃がなければ今頃俺は地獄にーー。
想像するのも恐ろしくなり、俺は頭を抱えた。
視界を塞ぐと、横からぜぇぜぇとよく聞く息切れが聞こえることに気づいた。
そう言えば、なんとか持ち堪えられたのは千里さんが俺を引っ張ってくれたからだった。
失礼な思い出した方をした俺がやっと振り向くと想像より真っ青な千里さんが肩で息をしていた。
「だ、大丈夫すか?」
「……久々に走ったから吐きそう。」
「はは、ありがとうございます。つーか、よくここが分かりましたね。」
体力とか力はないけど意外と足速いんだよな、この人。
ーーいいなぁ。
不意に浮かんでしまった黒い考えに自己嫌悪感が湧いた。助けに来てくれた人に何てことを考えているんだ、自分は。
俺の動きが不審だったのか、千里さんは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「だってお前、家出る前によろしくって言ったでしょ。あんな不穏なよろしく、なんて早々ないよ。監視カメラハッキングしてたら案の定、何箇所か映らないように工作されてる場所あるし。」
「それでここに来たと。」
「そ、真紘の考えなんてすぐに分かるよ。」
本当、この人には敵わないな。
俺が苦笑していると、千里さんは声音を変えた。
「で、真紘は大丈夫なわけ?」
「は、」
咄嗟に返事ができなかった。
いつもなら反射で大丈夫、と言えるのに。この人の真っ直ぐな視線には毎回勝てない。
思わず下唇を噛んでしまう。少しだけ血の味が滲んだ。
千里さんが少しだけ目を細めた。
「分かった、聞き方を変える。」
いつの間にか息が整ったらしい千里さんは小首を傾げた。
「仕事、お疲れ様。今回は真紘が心配だったからここに来たよ。」
あの時と同じだ。
目の前で馬路が業の証を刻まれた時も、千里さんは同じことを言っていた。あの時は心配、とはっきりとは言ってくれなかったけど。
でも、あの時と同じ目だ。
俺の目からは我慢していた涙がぼろぼろと溢れた。
千里さんは慣れた手付きで俺の頭を撫でる。
「千里さん……、俺、俺の左脚、」
「うん。」
「……無いって。」
目の前の彼が息を呑んだ。
確かに脚の力は入る。動く。きっと立とうと思えばすぐに立って前に走り出すことができる。
なのにーー。
俺はその場から立ち上がることができないまま、その場で泣きじゃくることしかできなかった。




