44. 霧崎雪花の回顧録①※
雪花さん視点です。
残酷な表現や不快に感じる可能性のある表現があります。苦手な方はご注意ください。
私が看護師を目指した理由。
それは何でことのない理由で。ずっと面倒を見てくれていた祖父が癌で入院した時に少しでも楽になるようにたくさん声をかけてくれたから。右も左も分からない私たちにどうすれば祖父のためになるか、1番親身に相談に乗ってくれたから。
普段は優しい看護師さんでも、何かがあればすぐに気づいて医者を呼んで迅速に対応をしていた。
私のヒーローは看護師さんだったから。
小さい頃から無愛想で人見知りだった。
でも、病院は大好きだった。
祖父が亡くなってからは私は施設に入った。
実の母は顔は美しかったが、金遣いが酷く男遊びも激しかった。それに我慢できなかった父は早々に離婚し、私を両親の元に置いて仕事のために海外に飛んでしまった。
祖母は物心つかないうちに亡くなった。それから祖父は私の面倒を見てくれたけど、私が8歳の時に亡くなった。
父と最後に会ったのは祖父の葬式の時で、高校までの資金援助をする代わりに施設に入るか、すっぱり縁を切って遠縁の親戚の元に預けられるかの2択を迫られた。
男遊び好きの女の子ども、どうせ親戚の元ではお払い箱。なら施設がいいと8歳ながらに冷めた選択をした。
後から聞いた話では、この時すでに父には新しい家族がいたらしい。自分も大概でないかと思う。
残念ながら友人は少なかった。小学生の時は両親のいない私を排他的に扱い、中学からはよく分からない告白のせいで同性の友達なんてほとんどいなかった。
色々と諦めた高校ではたくさん勉強して、看護師として色んな道を選べるように大学に進学した。色んな資格も欲しい、色んな科を見てみたい。
きっとこんな私のような存在でも誰かのためになるのだと証明したかった。
必死に勉強した。奨学金も得て、バイトもたくさん入れて、時間があれば勉強や体力作りのためにトレーニングにも挑戦した。
単位なんて落としたことなかったし、講義だって全部出た。なんてことのない平凡な学生だったと思う。
あの時までは。
私の人生の転機は19歳の時。
「ずっと前から好きでした! 付き合ってください!」
パーマのかかったお洒落な男の人だった。少し垂れ目で一見優しげな印象。長身でスラッとしていて、他の子も気にしている様子があった。
彼と初めて話したのは全学部共通の講義だったかな。確か心理学とか。
「……私、無愛想なのにどこを好きになったの。」
「その、はじめは美人だなって思っただけだったんだけど。話しているうちに案外ツボが浅いな、とか勉強をしてる時本当に楽しそうなところを見て惹かれました。」
そんな風に言う彼は真っ直ぐに私を見つめており、とても真摯な人だと思った。
「……その、よろしく。」
彼は目を丸くすると、天に向けて大きく両手を挙げた。
大人っぽい見かけに反して可愛らしい反応をする。私は笑ってしまった。
それから彼は私の知らない色んなことを教えてくれた。どんな遊びをしているのか、安くてコスパの良いお店とか、穴場の勉強スポットとか。
どうしてもやりたいことがあって浪人してまでこの大学に入ったこと、将来の夢。自分のこともたくさん話してくれた。
なのに、私は何も返せなくて。
この靄が罪悪感と名前を持ったのは、彼と初めて身体を重ねた時だった。
事は性急、彼の家に招かれてすぐのこと。
当時は彼の想いの強さ故と思っていたが、手酷いものだった。独りよがりで、私の気持ちなんて無視したような。
どうしたって気持ちが返せない罪悪感と、事後に見た作られたように綺麗な彼の笑顔に感じた言い知れぬ恐怖感に耐えられず、私は別れを告げた。
2年生になってしまえば彼とはキャンパスが変わる。私は思い切って引っ越しをした。泣けなしの金であったが、精神衛生上よろしくなかった。
引っ越して数ヶ月は平穏だった。
でも、それまでだ。
身に覚えのない催促状が届くようになった。
あまりにも悍ましい金額の羅列だったものだったから問い合わせしたら、下衆な男の声がした。
どうやら原因は母親らしい。まさか、何で今更、どうやって。色んな考えが巡った。
だけど、結局分かったのは、母親が何らかの方法で私の存在を知って借金を肩代わりさせた事、そして当の本人はすでに連絡がつかなくなっていた事だけだった。
私は返済を迫られた。
従わなければ何をされるか分からなかったからだ。
幸い、利子は良心的だったが、金額が金額だった。遅くなればなるほど利子は膨らむ。私は夜のバイトも始めた。
最初はコンビニとか宅配業者もやってみたけど金額がとてもでないが足りない。それに勉強の時間も。
夜のバーでの手伝いや接待をするようになった。不幸中の幸い、オーナーはいい人で空き時間に勉強もできるし、気前のいい客はチップと称して追加料金をくれた。
なんとか、お金は返せていた。
ただ、成績は少しだけ下がってしまい、奨学金の条件の成績ギリギリだった。身体も正直しんどい。
夏休みになれば、幸い稼ぎ時。死ぬ気で稼ぐしかない。
夜勤明けに採点のバイト、そのあとはファミレスやカラオケのバイト。久しぶりにバーのバイトがない私は、うとうとしながら終電に揺られていた。
それが間違いだった。
疲れのせいで2駅乗り過ごした。
私は歩き慣れた暗い道をてくてく歩いていく。人気のない道だった。
この時すでに私のセンサーは麻痺していたのかもしれない。男性が近づいてきていても呑気に欠伸をしていた。
「ねぇ。」
声をかけられて初めて気づいた。
驚いて後ろを振り向くと、そこにいたのは元彼だった。付き合ってた時と同じ優しい顔だったけど、何故だろう。とても怖かった。
「あ、う、久しぶり……。」
「久しぶり。少し話せない?」
私の家で。
彼はそう言うけど、嫌な予感しかしない。私の視線はひどく泳いでいただろう。
「その、そこの公園でいいかな。少し遠いし。」
「……いいよ。」
不服そうにしながらも、近くの児童公園のベンチで話すことを了承してくれた。
ベンチには不自然に1人分の隙間があった。
「最近ずっと遅いね。」
「うん……、バイトが忙しくて。」
「バイトそんなに詰めてるんだ?」
「ちょっと、事情があって……。」
「ふぅん、お金に困ってるんだね。」
私は頷いた。久しぶりにオーナー以外で自分のことを心配してくれる人に会った。少しだけ口元が緩む。
「でも、まさかアンタに会うとは思わなかったよ。らしくもなくほっとしちゃった。」
「そう言ってもらえるなら元彼冥利かな。」
「何それ。らしくない。」
こんなやりとりでさえ笑ってしまうくらい自分は摩耗していたのか。つい失笑してしまう。
だけど、彼からは驚きの言葉が放たれる。
「ねぇ、俺たちもう一度やり直せない?」
「は?」
私は驚いて固まってしまった。
いや、彼ほどの人間が自分と付き合うなんて駄目だ。世界が違う人間だもの。
「……う、ごめん。私、今、そういうの、考えられないし。」
「なら、いくら払えばやらせてくれんの?」
「……え?」
再び彼の顔を見た時、彼はあの時と同じ穏やかな笑みを浮かべていた。言葉と表情が合っていない。彼はさも当然のことのように話し始める。
「霧崎、夜のバイトしてんでしょ? 金もらってやってさ。何でこの俺が振られて手に入らなかった女をどこぞのおっさん達が金払って手に入れてんの? 意味分からなくない?」
「何言って……、いや、私、そんなやましいバイトなんか。」
「今更俺に嘘つくの? あの時は俺の下で気持ちよさそうにしてたくせに?」
あ、コイツヤバい奴。私は口を結んだ。
私は彼を睨みつけた。
「……とにかく、そんなバイトもしてないし、二度とアンタの女にはならない。話はそれだけなら私は帰るから。」
「ふざけんなよ!」
私は彼に強く腕を引かれた。そのまま冷たい地面に押し倒される。
クソ野郎。自分の思い通りにいかないなら力づくか。私はすぐに彼の股を蹴り上げた。
彼がいっ、と悲鳴をあげて横に転がったのを見計らって逃げ出した。
思ったよりもあっさりと逃げられた。
私は走って、走って、身体中が痛いのなんて無視して家まで走った。家に入った記憶はなかった。
風呂に入って全身に傷がつくくらい洗った。何度も何度も、アイツに掴まれた感覚が消えるように。涙が止まらない、それと同時に言葉にできない感情が胸の奥から湧き上がっていた。
何で、何で私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
私が何をしたって言うの。
両親の温もりを知らずに生きてきた。唯一優しくしてくれた祖父母だって決して身体は丈夫でなかったのに私に愛をくれた。でも、結局亡くなってしまった。
母親だって、この厄介な容姿だけ残して消えたと思ったら急に借金を押し付けてきた。
背景のせいで小学校の時も友達ができなかった。この容姿のせいで彼女にしろ友人にしろ私は所詮ステータスとしてしか扱われなかった。
普通の子たちが当然のように受けてきた愛情も知らない、環境だってない、遊ぶことも知らない。流行だって全く知らない。
好きでもない男に媚を売って金を貰って身に覚えのない借金を返す。ふざけるなよ。
この時の私は異常だったと思う。
私は翌日、殆どのバイトを辞めた。
在宅ワークでできるものと夜のバイトに限った。
まず手始めに、父親の勤め先に私への扱いと私の母親の借金癖のことを書いた文章と証拠書類のコピーを送った。別に痛くも痒くもないかもしれないけど、少しでも困ればいい。
次に私は母親に復讐することにした。夜のバイトを続けたのも、おそらくあのふざけた母親ならホストや夜の仕事など何らかの関わりを持っていると踏んだからだ。借金の取り立て屋も、私が素直に金を返すもんだから情報をぽろりと漏らしてしまうことも少なくなかった。
こういうことばかりは上手くいく。皮肉なものだなと思った。
とある日。
母親が通っているというホストクラブの近隣を探していると、ホスト帰りの酩酊した女性が帰路につくのを見かけた。普段なら放っておくけど、背後をつける男が目についた。
どうせここで張っていても無駄そうだ。私は何となくその男をつけた。
途中、女性が膝を折った。飲み過ぎだろう。
その男は不気味に笑うと、その女の近くにしゃがみ込む。ああ、自分の欲望のためにくだらないことをするんだろう。
くだらない命だ。
そう思えば早かった。
監視カメラもない路地裏に自ら入っていくものだから、私は護身用の刃物と近くにあった鉄パイプを手に取った。
これが私の初めての罪だ。
翌日、凄惨な事件としてニュースになった。巷は切り裂きジャックだとか騒がれていた。酒に溺れた女が第一発見者だったらしいが、哀れなものだ。
私の中には一切の罪悪感はなかった。むしろ清々しいくらいだった。
私は母親を探す片手間、女性に意のままにしようとする卑怯者に手をかけていた。世間はヒートアップしていた。正義の使者だとか言う馬鹿も出てきていた。
ただの犯罪者なのに。
「……血の臭いが落ちない。」
いつの間にか私は看護師の夢さえも捨てた。
皮肉にも学んできた知識は反対に命を奪うための知識となっていた。
切り裂きジャックの最後のターゲットは実の母親だった。
目的が達成されてしまえば人は燃え尽きる。
現場で呆然としていると、騒ぎを聞きつけた人間が通報したのだろう。警察がたくさんやってきた。
世間はきっと私の苗字をもじって下らないことでも言い出すだろう。別に構わない。大嫌いな父親の苗字なんて汚れてしまえ。
私は留置所に拘留された夜。全てが終わった。
薄れゆく意識の中で、私自身もくだらない命だったんだなってぼんやりと思った。




