4.木原琴子②※
少しだけ残酷な描写があります。
ご注意ください。
地に足がついた。
恐る恐る目を開けてみると、なんてことのない。所謂閑静な住宅街というやつだ。でも、パッと見ても綺麗なマンションや高級住宅が多い気がする。
時間は夕暮れ時か、いや小学生や中学生も歩いているし、夕飯の時間もそろそろか。
「ここは木原さんの家の近くですか?」
「はい。でも、私が知っている光景よりも少し昔のような……。」
「あ、あれって木原さん?」
俺はふとよそ見をしたときに目に入った夫婦を指差した。今より若いらしい2人は仲睦まじく見え、とても幸せそうに見える。
そして、木原さんのお腹は明らかに大きく妊婦さんであることもすぐに分かった。
それを認めた木原さんは懐かしそうに目を細めた。
「息子が生まれる直前の頃ね。懐かしい。」
「幸せそうっすね。」
「そうね、この頃はとても幸せだった、わ……?」
木原さんは話しながら自分の肩を抱く。
俺も、東雲さんもその違和感は気づいた。
「……家に、行ってみましょうか。」
東雲さんの言葉をきっかけに俺たちは木原さんの家に向かった。
家族で住むには十分な広さのマンションだ。角部屋、いい配置でないか。それにしても生活感を感じにくいほどに防音はしっかりしているし、通路やホールもとても綺麗だ。
俺の郊外の実家とは違うな。
「鍵って……。」
「大丈夫ですよ。貴女がいれば入れます。」
そう言った東雲さんはあっさりと扉に手をかけた。
驚くべきは、東雲さんの手が扉の向こうに突き抜けている。
「ええ!?」
「そっ、それ大丈夫なの!?」
「大丈夫ですよ、ほら。」
ほら、と言った東雲さんはさっさと中に入ってしまった。
つい俺と木原さんは顔を見合わせてしまう。目線でどうする、どっちがいく、と会話をしてしまう。
「いっ、一緒に行きましょう!」
「そうね!」
俺は木原さんと手を繋いでせーので部屋に飛び込む。
本当だ、東雲さんの言う通り普通に入れた。これってプライバシーとか大丈夫なのかな。
扉の向こうでは東雲さんが手を繋いできた俺たちを怪訝な表情で見つめていた。慌てた木原さんに手を振り払われた。
そうだよな、向こうは既婚女性で未成年の男子と手を繋ぐことに抵抗があってもおかしくないよな。
悲しい気持ちになりながらも、ふと玄関の靴を見やるとあることに気がついた。
事務所で話したときは、潔癖かと思うような掃除習慣があるように語っていたけど、靴は揃えてあるもの滅茶苦茶綺麗、とまではいかないように感じた。友だちの家と同じ程度じゃないか?
リビングに進むと、その違和感はやはり残った。
確かに埃とかはほとんどないけど、少しだけランチマットがズレていたり、キッチンも水滴が多少残っていたりと、普通の家庭と変わらないように思った。
自宅で過ごす2人は幸せそうに向き合いながら食事を摂っている。うん、普通だ。
本当にこの世界に死因となる記憶があるのだろうか。
しかし、東雲さんにとっては違うようで口元に手を当てながら何かを思案している。
「やっぱり……。」
その表情は険しい。
何に気づいたんだろう、俺が尋ねようとしたときだった。
ノイズが入ったように世界が変わる。
俺と木原さんは小さく悲鳴をあげて東雲さんにくっついた。
「何すかこれ!」
「世界が切り替わったんだよ。時間が少し進んだり場面が変わる時に起こる現象だから安心してください。」
「えぇ……。」
記憶の主である木原さんも戸惑っている。
俺までテンパってる場合じゃねぇか。俺は汗を拭いながらあたりを見回すとすぐに気が付いた。
明らかに部屋が乱れた。
ベビーベッドもあり、赤ちゃん用のおもちゃや服も散乱している。はじめての子どもということでてんやわんやって感じかな。
実家に帰ったりとかしてないんだな。
この状況から明らかなのは、木原さんは確実に潔癖症とか完璧主義者ではないってこと。ならば、なぜ先程の会話で隅々まで掃除をなどと言ったのだろう。
その辺が東雲さんや雪花さんの懸念事項にかかることか。
俺はそんなことを考えていた。
いや、ある可能性は浮かんでいたが考えないようにしていた。我ながら浅はかな対処方法だ。
だってすでに木原さんは自分の違和感に気づき始めている。彼女は頭を抱えながら現状を目の前にして震えていた。
「何で、こんな。散らかしたら……。」
記憶の中の木原さんは忙しそうにしつつも、どこか嬉しそうで楽しそうにしている。部屋の現状に何も不安も覚えず、身なりも綺麗だ。
様子を見ていると、玄関の鍵が開いた音がした。
『ただいまー。』
『おかえりなさい。』
『うわ、何だこの有り様!』
旦那さんは部屋を見て露骨に顔を顰めた。
『ずっと家にいたんだろ? 何でこんなに部屋汚れてんだよ。』
『ごめんなさい。今日純希くんが熱出しちゃって……。お夕飯も今から作るね。』
『はぁ? 飯もできてねーのかよ。』
『専業主婦のくせに役に立たねーな。』
ノイズが走った。
部屋はいつの間にか片付いていた。
外は暗い、夜中だろうか。
部屋中に酒の臭いが充満する。
『お前、誰の金で飯食えてると思ってるんだよ!』
『ごめんなさい!』
衝撃音と悲鳴に近い謝罪、怒声がリビング中に響く。
『家事しか取り柄のないお前が何もできねーならお前は何ができんだ! ああ!? 仕事もできない、顔もブスのお前を貰ってやったのは誰だと思ってんだ!』
『ごめんなさい! ごめんなさい! 次こそは完璧にします!』
『役立たずの癖に泣くな!』
床に叩きつけられた過去の木原さんは呻く。
その背中を旦那さんの蹴りが襲う。
無抵抗の彼女は何度も何度も、服で見えない部分を殴られる。
そして、真に恐ろしいのはその翌日の朝だった。
『昨日はごめんな。仕事で疲れててつい当たっちまった。これからも大切にする。だから、許してくれ。』
『大丈夫だよ。私も家事が全然できてないのは事実だから。私も頑張るね。』
『うん……愛してるよ、琴子。』
『私も愛してる。』
異常だ。
そのやりとりを何度しているんだろう。
また数日後の夜には暴力、その翌朝には優しさを装った謝罪。
横にいた木原さんを見てみると彼女は信じられないものを見るかのように呆然としていた。
「……何で、何で私、こんな。」
「家庭内暴力の特徴です。」
東雲さんはあくまでも冷静に話す。
「加害者が暴力や経済的な支配、心的攻撃を用いて被害者をコントロールしている状況。この光景はまさにそれ。優しい言葉を巧みに操り、貴女の罪悪感を増大させ、自責を招く。DVの被害者が気づけない、外にSOSを出せないのはそのせいです。」
「で、でも……私が完璧に掃除をこなせないのが悪いのよ。あの人は、それを注意してくれているだけ。」
「その状況はおかしいんです。」
東雲さんははっきりと述べた。
「木原さんは十分にやっている。あなたは、旦那さんがいなくたって生きていける。結婚する前はそうやって生きてきたんでしょう?」
「……。」
『痛いっ、痛い!』
『叫ぶ元気があるなら家事をしっかりやれよ!』
髪を引っ張られ、彼女は寝室に引きずられていく。
『ほら、躾けてやらねぇとなぁ!』
『いやっ、やめて!』
寝室からは殴る音がする。
悲鳴がずっと聞こえていたが、鈍い音が響いたのを機に声は小さくなっていった。
いつも通り、朝はやってくる。
いつも通り、彼は優しい言葉を妻にかける。
ただ、この日の彼女は目が虚ろだった。
『お母さん、僕小学校行くよ?』
『うん。』
『……どこか痛いの?』
『……うん。』
彼女は顔を覗き込んできた息子を優しく抱きしめる。
この子のために頑張らないと。この子を守らないと。
『お母さん?』
その抱擁を最後に彼女の手はだらりと垂れる。
まるで本物の人形になってしまったかのように。